小谷城
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小谷城(おだにじょう)は近江国浅井郡(現在の滋賀県東浅井郡湖北町伊部)にあった戦国時代の城。山城。日本五大山城の一つに数えられる。戦国大名・浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で織田信長に攻められ落城した。その後、北近江の拠点は長浜城に移されたために廃城となった。現在は土塁・曲輪などのほか、先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っている。国指定史跡。
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[編集] 築城年代に関する説
『浅井三代記』によると、「永正13年(1516年)9月28日に着工同年10月20日に完成」という記述がある。しかし、浅井三代記の記述には疑問点も多く、大永4年(1524年)築城説が有力である。この2説以外にも諸説あるが、いずれにせよ、大永5年(1525年)、六角定頼が江北に侵攻した際、浅井亮政が小谷城にて篭城戦をしたことから大永5年迄に築城されていたことは確かである。
[編集] 城の構造
小谷山一帯の尾根筋や谷筋をそのまま活用した南北に長い山城で、築城当時は現在の本丸跡よりさらに北に位置する大嶽城付近に本丸があったと考えられている。久政、長政によって代々拡張が重ねられ現在の構造になった。城は幾多もの郭によって構成されており、本丸とその奥に続く中丸との間には深さ5~10メートルほどの堀切があり主として南北2つの部分に分けることが出来る。中丸以降の構造は、京極丸、小丸、山王丸と続き山王丸が小谷山の山頂部分となっている。山王丸からは谷筋へと下り、小谷山より100メートルほど高い位置にある大嶽城へと続く。京極丸は浅井亮政が旧主京極氏を幽閉していた場所だったので京極丸と名づけられた。これらの郭を守る形で武家屋敷跡が点在し、清水谷などの要所には重臣の屋敷が配置されていた。
落城後長浜城の建築資材とするため小谷城は解体されてしまったが山王丸付近に現存する大石垣をみる限り当時としては先進的で大規模な城であったと推察される。長浜城廃城後、新たに建設された彦根城の西の丸三重櫓は小谷城の本丸を移築したものだといわれているが大規模な修繕により資材が入れ替わってしまっているためそれを裏付けることはできない。
[編集] 落城から廃城
亮政の孫長政は元亀・天正年間に朝倉義景とともに織田信長と戦ったことで知られる。元亀元年(1570年)9月の姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突し、激しい戦いの結果織田軍が勝利したが、信長は小谷城の堅固さを考慮して城攻めを断念、姉川対岸の横山城に有力部将の木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を配置し、浅井氏に対する付城(前線基地)とした。
その後もしばらく小谷城から出る浅井軍と秀吉軍とで争いがあったが、各拠点を守る磯野員昌(佐和山城)・宮部継潤(宮部城)ら浅井軍の諸将が徐々に寝返っていき、付城も横山城から、小谷城の南側のすぐ正面にある虎御前山の線へと前進し、小谷城への包囲は狭まっていった。
[編集] 織田信長の小谷城攻略
天正元年(1573年)8月8日、小谷城のすぐ脇にある山本山城を守っていた阿閉貞征が羽柴秀吉(7月ころに名字を木下から羽柴に改める)の調略に乗って織田方に寝返った。山本山城は小谷城の西側に位置し、北国街道を遮断する役割を果たしており、織田方から見ればこの城を手に入れることで小谷城を包囲することが可能となった。信長はその日の夜半に直ちに岐阜城を進発し、10日には越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖することに成功した。このため援軍に赴いた朝倉義景の軍勢(2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉や木ノ本などに布陣した。この混乱の中で焼尾の砦を守る浅見対馬守が降伏した。焼尾は小谷城と峰続きである大嶽の砦の麓にあるため、信長は小谷城攻略の意思をさらに固めた。
8月12日(グレゴリオ暦9月8日)、畿内一帯に嵐が襲来した(京都などでも被害の記録がある)。この嵐を好機と見て信長はこの日自ら浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させることに成功した。さらに翌日には形勢不利を見た朝倉軍が撤退するところを一気に強襲し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えることに成功した(刀根坂の戦い)。信長は一部の手勢を押えに残して越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのち、8月26日には虎御前山に帰陣した。翌8月27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功した。さらにその日のうちに小丸を落城させ、久政は自害した。さらに次の日には本丸も落ち、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡した。
その後、浅井氏の旧領のうち伊香郡・浅井郡・坂田郡は羽柴秀吉に与えられるが、秀吉は街道から離れた小谷城を嫌い、天正3年(1575年)に中山道と琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城とした(長浜城)。そのため小谷城は廃城となり、現代に至っている。
[編集] 関連項目
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