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尼子 通久(あまご みちひさ、天文23年(1554年)? - 天正6年(1578年))は、尼子誠久の六男(尼子勝久の弟)とも尼子敬久の子ともされる。
家中を代表する鉄砲の名手だったという。尼子晴久の手で新宮党の尼子国久一族が殺害された為、他国に逃亡。蜂須賀氏の家臣と成り鉄砲頭となる。
1577年、尼子勝久・山中幸盛らとともに尼子氏の再興を賭けて毛利氏と戦うが、1578年の上月城の戦いで敗北し降伏。反乱の首謀者の1人として尼子勝久・尼子氏久・神西元通と共に自刃した。