山内豊福
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山内 豊福(やまうち とよよし、1836年6月23日(天保7年5月10日)-1868年2月6日(慶応4年1月13日))は、土佐国土佐新田藩の第5代藩主。正室は松平信庸の娘・典子。子に娘(松平忠礼室)、娘(秋田映季室)。官位は従五位下、摂津守。
天保7年(1836年)5月10日生まれ。父は黒田長元とも山内豊策とも言われており、定かではないが、第4代藩主・山内豊賢の養嗣子となって安政3年(1856年)6月6日、養父の隠居により家督を継いだ。本家の山内豊信を助けて新田藩の軍制を洋式化し、軍備増強に努めた。急進的な佐幕派であったが武力行使には反対で、戊辰戦争では幕府に対して自重するように務めたが及ばなかった。その後は徳川慶喜に従って江戸に入り、抗戦派の意見には反対だったが徳川氏の幕府存続には賛成的であった。しかし本家の土佐藩などが新政府側に与して狭い立場に立たされた豊福は、慶応4年(1868年)1月13日(1月14日説がある)に正室・典子と共に自殺して果てたのである。享年33。新田藩の家督は山内豊賢の弟・山内豊充の長男・山内豊誠が継いだ。
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