山本富雄
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山本 富雄(やまもと とみお、 1928年11月5日 - 1995年3月16日)は、日本の政治家、実業家。旧制高崎中学(群馬県立高崎高等学校)卒。群馬県吾妻郡草津町出身。参議院議員山本一太は息子。
[編集] 概説
祖父から続く旅館を経営しながら、山田屋(現在のやまだや)を創業し、群馬県内屈指の優良企業に育て上げた。
のちに政治を志し、26歳で草津町議会議員に当選。1966年に群馬県議会議員に当選。福田赳夫のアドバイスもあり、県議会議員としての経験を背景に国政を目指し、衆議院群馬3区から出馬しようとする。しかし、当時群馬3区には福田赳夫・中曽根康弘・小渕恵三という超大物3氏が議席を保持しており、社会党の有力議員山口鶴男(のち書記長)もいることから調整によって参議院にまわされた。
国会議員としては、福田派に所属し、福田赳夫の忠実な側近であった。農業政策に精通し、農水族のドンとして力を発揮し、新聞販売協会顧問を受けるなど新聞業界にも強い影響力を誇った。1990年、農林水産大臣に就任。課題の山積していた農業問題に大ナタをふるい、辣腕振りを発揮した。これらの実績が評価され、1993年、自民党参議院幹事長に就任した。
1995年、死去。後に実子の山本一太が後継として参院選に群馬県選挙区から出馬。同情票を手堅くまとめて当選をし、地盤を守った。
スキーに造詣が深く、群馬県スキー連盟会長を長年にわたって務めるなど、日本スキー界の発展に尽力。選手団長、監督として国際大会への参加をしたこともある。
[編集] 備考
もし山本が衆院選に出馬していたら、おそらく当時自民党の3人の中で最も地盤の弱かった小渕は、農政票をもつ山本に負けて落選していたと思われる。そのため、小渕も山本には恩義を感じていたとみられ、自分が総理大臣になってから第2次小渕内閣で息子の山本一太を外務政務次官に抜擢した。
[編集] 参考文献
- 山本富雄先生を偲び、参議院議員山本一太君の大成を期す会「直滑降-生き続ける山本富雄の精神」(メモリード、1996)
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