岩倉宮忠成王
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岩倉宮忠成王(いわくらのみやただなりおう;承久3年(1221年) - 弘安2年(1279年)3月11日)は鎌倉時代の日本の皇族。順徳天皇皇子で母は熱田神宮大宮司従三位藤原清季の娘。同母の兄弟に天台座主尊覚法親王・園城寺長吏覚恵法親王、異母兄弟に仲恭天皇・四辻宮善統親王、王子に源彦仁・彦豊王がいる。
仁治3年(1242年)正月9日四条天皇崩御の際、天皇は僅か12歳での崩御であった為皇太子が定まっておらず後継者選定に時間がかかった。王は皇嗣候補の1人として名が挙がり、一方の候補は土御門天皇皇子の邦仁王であった。忠成王には縁戚の九条道家がつき、邦仁王には土御門定通がつき夫々幕府に働き掛けた。鎌倉幕府執権の北条泰時は先の承久の変の教訓から後鳥羽天皇嫡孫である忠成王の即位に難色を示し、一時は軍事介入を仄めかしながら、鶴岡八幡宮の神意であるとして邦仁王を推した。同年の3月18日に邦仁王(後嵯峨天皇)が即位する事となる。
王はこの後宝治3年(1249年)2月25日に元服し、岩倉宮と呼ばれるようになる。
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