岩城重隆
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岩城 重隆(いわき しげたか、1500年(明応9年)頃? - 1569年(永禄12年))は、戦国時代中期の戦国大名。岩城由隆の子。岩城成隆(政隆)の弟。
重隆の頃の岩城氏は、伊達氏や相馬氏、さらに佐竹氏や白河結城氏などの侵攻を受けて苦境に立たされていた。重隆はこの窮地を脱するため、伊達晴宗の長男であった岩城親隆(生母は重隆の娘)を養嗣子として迎え、それによって伊達氏の援助を受けることで、この窮地を脱したのである。
1541年には京都に上洛して、叙位・任官されたと言われている。
岩城 重隆(いわき しげたか、1628年2月19日(寛永5年1月15日) - 1708年1月3日(宝永4年12月11日))は、亀田藩第3代藩主。2代藩主岩城宣隆の長男。母は真田信繁(幸村)の娘・顕性院。通称は庄次郎、左京。官位は従五位下伊予守。
寛永11年(1634年)3月28日将軍徳川家光に御目見する。明暦2年(1656年)7月25日父宣隆の隠居により、家督を相続する。同年12月26日従五位下伊予守に叙任する。
天和元年(1681年)、素行の悪さから嫡男・景隆を勘当して隠居所に幽閉した。元禄9年(1696年)、家臣からの声もあって景隆を赦免することにした。しかし、景隆はその直前に病没した。悲しみにくれた重隆は、専住山正念寺に供養のため念仏堂を建立したという。また、晩年には孫・秀隆も廃嫡し、秋田藩士佐竹義明の息子格道(又八郎)を養子に迎えようとしたようである。
宝永元年(1704年)2月18日隠居し、廃嫡した長男・岩城景隆の長男・岩城秀隆に家督を譲った。宝永4年(1707年)12月11日死去、80歳。新田開発や城下町の整備などを行なった名君として知られる。「月峰公」とも呼ばれる。
正室は佐竹義直の娘。継室は本多重能の娘。子は岩城景隆(長男)、娘(石川乗政正室)、娘(竹谷松平清当正室のち柳生俊方継室)ら三男四女あり。
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