布勢天神山城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
布勢天神山城(ふせてんじんやまじょう)は因幡国高草郡(現在の鳥取県鳥取市湖山町南、布勢)にあった丘城で、戦国期の因幡国守護所とされる。当時は布勢ではなく布施と表記された。
目次 |
[編集] 歴史
- 因幡民談記によると、1466年(文正元)因幡国第5代守護・山名勝豊によって二上山城より守護所が移転されたと伝わるが、勝豊は1459年(長禄3年)に没しており、この年代には疑義がもたれている。確実な史料による初見は1513年(永正10年)である。
- 第13代守護・山名誠通はこの城にあって、同族である隣国但馬守護の山名祐豊と対立、敗れて敗死した。誠豊の死後、あとを継いだ守護・山名豊数の時、重臣・武田高信が鳥取城を本拠として離反する。1563年末(永禄6年)に山名豊数は武田高信の猛攻を受けて布勢天神山城を退去し、鹿野城に退いた。1573年(天正元)尼子氏の援助を受けた豊数の弟・山名豊国が武田高信を鳥取城から追い、守護所を鳥取城に移転させ、天神山城は廃城になったとされる。この時、天神山城に聳えていた3層の天守櫓も鳥取城に移築されたという。ただし、山名豊数が武田高信の攻撃によって鹿野城に退いた1563年以後は確実な史料に天神山城の名前が出てくることはない。廃城時期については今後の検証が必要である。
- 1617年(元和3年)に備前岡山の池田光政が鳥取に転封された際、手狭な鳥取城に替わる新たな新城候補地として、城地の要害と城下町を作る利便性から布勢天神山城が新城として検討されたことがあった。しかし半世紀近く前に廃城となっているため整備に時間がかかることから、布勢天神山城が再び因幡の首府になることはなかった。
[編集] 構造
因幡民談記に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。
- 守護館は天神山麓に築かれていたようで、古地図や伝承によると3層の天守櫓も存在していたとされる。天神山周辺には湖山池の湖水を引き込んだ内堀が巡り、卯山周辺にも水堀が設けられていた。
- 卯山には中村氏や正木氏といった重臣たちが砦を構えており、因幡国初代守護・山名時氏が近江から勧請した日吉神社(布勢の山王さん)も置かれた。古地図には卯山の南麓に仙林寺という三重塔を持つ寺院の存在も描かれている。
- 卯山周辺に侍町・鍛冶町・傾城町などの小字が残ることから、城下町も形成されていたと推測されている。
- 布勢天神山城の周辺には、徳吉城・新山城・鍋山城・足山城・正木が鼻・宮吉城といった砦群が設けられ、本城天神山と密接に連絡を取り合っていたと考えられている。兵法でいう「別城一郭」の典型である。
[編集] 遺構と現在の状況
- 1972年(昭和47年)、旧鳥取農業高校の校舎新築工事中に、天神山南麓から弥生期から戦国期にかけての複合遺跡が出土した。古銭や土師器、白磁や青磁、水濠跡、掘っ立て柱の跡、焼けこげた井戸枠などが出土し、城下町の存在や火災を物語っていた。中世守護所と城下町を検証する貴重な遺跡として保存を望む声も強かったが1ヶ月余りで発掘調査は終了、校舎建築は続行され、地下の遺跡は破壊されてしまった。
- 現在、天神山の麓には鳥取県立鳥取緑風高等学校の校舎が建っているが、天神山には土塁、曲輪跡、空堀跡、堀切跡、切岸がかなりはっきりと残っており、かつての有様を偲ぶことができる。さらに天神山上には天守櫓が築かれたとされる高さ5mの岩塊や井戸、わずかながら粗末な造りの石垣も残る。城地を巡っていた水堀の一部も農業用水として現存している。
- 一方の卯山は宅地化が進み、多くの曲輪跡が消滅しているが、卯山の丘陵上にある布勢1号墳(前方後円墳、国史跡)には空堀や土塁のあとが認められる。古代の古墳を城域に取り込んで砦として利用した例として興味深い。
- 徳吉城や新山城をはじめとする布勢天神山城周辺の砦群は、宅地化や国道9号の改良工事に伴って破壊が進んでいる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 鳥取市に残る中世城館跡、砦跡を実地調査したHP。因幡山名氏関係、天正9年の秀吉による鳥取城攻め関係については、特に詳述されている。