帝辛
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帝辛(ていしん いわゆる殷の紂王 紀元前1100年ごろ)は、殷の30代目の帝であり、最後の帝。名は辛、或いは受と呼ばれる。帝乙の末子。異母兄に微子啓と仲衍らがいる。子に武庚禄父ら。暴虐な政治を行なった帝王とされ、周の武王に滅ぼされた。『史記集解』によれば「義を残(そこ)ない、善を損なうを紂と曰う」と。
[編集] 帝辛の伝記
帝辛は弁舌に優れ、頭の回転が速く、力は猛獣を殺すほど強かった。それゆえ臣下が馬鹿に見えて仕方なく、諫言を受けても得意の弁舌で煙に巻いてしまった。帝辛の増長はつのり、神への祭祀をおろそかにし、重税をかけて天下の宝物を自らの物にし、尤渾や費仲と言った佞臣を重用し、妲己と言う愛妾の言う事ならば何でも受け入れ、日夜宴会を開いて乱交にふけった。この時、帝辛は肉を天井から吊るし林に見立て、酒を溜めて池に見立て、欲しいままにこれらを飲み食いした。ここから度を過ぎた享楽の事を酒池肉林と呼ぶようになった。
帝辛の親戚に箕子と比干と言う賢人がいた。箕子は帝辛が象牙の箸を作ったと聞き、「象牙の箸を使うなら陶器の器では満足できず、玉の器を作る事になるだろう。玉の器に盛る料理が粗末では満足できず、山海の珍味を乗せる事になるだろう。このように贅沢が止められなくなってしまうに違いない。」と危惧し、贅沢をやめるように諫言したが、帝辛はまったく受け入れず、誅殺を恐れた箕子は狂人の振りをして奴隷の身分になった。比干は当時行われていた炮烙と言う残酷な刑罰をやめるように諫言した。帝辛は怒り、「聖人の心臓には七つの穴が開いているという。それを見てやる。」と言い、比干は心臓を抉り出されて死んでしまった。
当時、殷の最も重要な地位三公には諸侯の中の実力者である西伯昌(後の文王)、九侯、鄂公が就いていた。九侯に美しい娘がいたので、帝辛はこれを妾にしたが言う事を聞かないので娘を殺し、父の九侯まで殺して塩辛にしてしまった。あまりにもひどいと鄂公が文句を言うとこちらは乾肉にしてしまった。それらの話を聞いた西伯昌がため息をつくと、これを聞きつけた帝辛は西伯昌を羑里と言う所に幽閉した。その後、西伯昌は財宝と領地を帝辛に献上して釈放された。
西伯昌が死に武王が立つと、ついに天下の諸侯は帝辛を倒すために立ち上がった。武王は文王の位牌を掲げ、軍を起こした。一旦武王は退いたが、その二年後再び武王は軍を起こした。両軍は牧野で激突した。この時殷軍は70万を超える大軍であったが、その軍は奴隷が多く占め、戦意は無いどころか武王がやってくるのを待ち望んでいたほどであったので殷軍は大敗した。
首都に逃げ帰った帝辛は鹿台に上り、焼身自殺した。その死体は武王により鉞で首を断たれた 後世、夏桀殷紂(かけついんちゅう)と呼ばれ夏の桀と共に暴君の代名詞となった。
[編集] 帝辛の評価
帝辛の伝記はまさしく悪事のオンパレードであり、ここまで並べられると逆に怪しく思われる。論語の中で、孔子の弟子の子貢が「殷の紂王の悪行は世間で言われているほどではなかっただろう。」と述べたとあるから、春秋時代後期には既にそうとうの悪評があり、当時の有識者もまた疑問を持っていたと思われる。実際甲骨文によれば、帝辛は神への祭祀をする事厚く、東の人方と言う部族を討ち国勢は盛んになったと書かれている。熱心に祭祀を行ったために生贄を多く必要とし、そのことが周によって残された史書に、帝辛の悪事として誇張されたであろうし、後世、文王と武王が聖人化されたため後世の人間が色々と悪事を付け加えた事も考えられる。殷周革命は衰えた殷に周が取って変わったというわけではなく、殷が東方の経略に夢中になっていた隙を突いて周が殷を滅ぼしたとする説が最近では有力視されている。
帝辛と桀の最期は酷似している。美女(末喜と妲己)に溺れ、諫言をする臣を殺して回り、次代の王(湯王と文王)を幽閉し、名臣の補佐(伊尹と太公望)を受けた英雄に滅ぼされる。これは帝辛の最後から桀の伝説に欠けている部分を穴埋めしていったのではないかと思われる。
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