常陸北条藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
常陸北条藩(ひたちほうじょうはん)は、常陸国筑波郡北条(現在の茨城県つくば市)に存在した藩。
目次 |
[編集] 藩史
豊臣秀吉により蒲生氏郷の寄騎となっていた佐久間勝之は、氏郷の没後、信濃国長沼城を賜った。 秀吉の没後、近江国山路で3,000石を与えられ、慶長12年(1607年)、江戸城内に移転した際に常陸国北条に3,000石を加増された。 これにより領高が計1万石となり、大名に列せられ、常陸北条藩が成立、初代藩主となった。 ただし、任地には居住せず江戸城に常駐する定府大名であった。 その後、大阪の陣で武功を挙げた佐久間勝之は信濃長沼藩1万8,000石に移封となり、常陸北条藩はいったん廃された。
下総国佐倉藩主であった堀田正盛の四男・堀田正英は、父が殉死した後、その遺領から5,000石を分与された。その後は徳川家綱に仕えて御小姓組番頭、書院番頭、大番頭となって3,000石を加増された。そして天和元年(1681年)には若年寄となり、翌年には5,000石を加増されたことから1万3,000石の大名となり、常陸北条藩が再度立藩した。
正英はその後も奏者番になるなど、幕府の役職を歴任して元禄元年(1688年)に死去した。死後、領地の1万3,000石のうち、3,000石は次男の堀田正矩が、2,000石は三男の堀田正章が継いだ。そして残り8,000石は幕府により没収されたため、ここに常陸北条藩は廃藩となったのである。堀田氏の所領の大半が幕府に没収されたのは、長男の堀田正親が罪を得て陸奥福島藩に蟄居させられていたからだと言われている。
その後、常陸北条領は天領を経た元禄11年(1698年)、土浦藩領となった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 佐久間(さくま)家
1万石(うち北条は3千石)。外様。
[編集] 堀田(ほった)家
1万3,000石。譜代。