平田靱負
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平田靫負(ひらた ゆきえ、元禄元年(1704年) - 宝暦5年5月25日(1755年7月4日))は、江戸時代中期の薩摩藩家老。宝暦3年(1753年)の木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者。
1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人を一切雇ってはならないとした。
露骨な弾圧政策に薩摩藩は徳川幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら徳川家と一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。
40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあった。工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した。この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している(この時にはなんと、本来監視のはずの徳川家の武士からも薩摩藩の武士に同情して抗議の腹を切るものが2名出た。いかに過酷な仕打ちをしたかが伺われる)。最終的に病死33名、自殺者52名という多大な損失を薩摩藩は被ることになった。
分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、平田は藩への多大な負担の責任を取って自害。享年50。
辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」。
[編集] エピソード
- 鹿児島では「平田靱負」は小学校の道徳の教科書に掲載されており、その名を知らない人はいないと言っても過言ではない。
- 平田靱負の屋敷のあった場所(鹿児島県鹿児島市平之町)は現在、平田公園となり、平田靱負の銅像がある。また、命日にあたる毎年5月25日、薩摩義士頌徳慰霊祭が行われている。
- 岐阜県の海津郡(消滅)にかつて存在した平田町(現・海津市)は、平田靱負の功績に因んで付けられた町名である。また、その海津市平田町三郷には平田公園という公園があり、平田靱負の銅像がある。また、海津市海津町油島には平田靱負を祭神とした治水神社がある。
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