平盛嗣
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平盛嗣(たいら の もりつぐ ? - 1194年(建久5年))は、平安時代末期の平家方の武将。父・平盛俊同様平家の郎党として勇名を馳せた。通称は越中次郎兵衛盛嗣。
平家物語では「越中次郎兵衛盛嗣」の通称で呼ばれ、平家においてその豪勇を称えられる名将であった。源氏との数々の戦に参戦し、屋島の戦いでは源義経の郎党である伊勢義盛との詞戦(簡単に言えば嘲笑合戦)の逸話を残している。
1185年の壇ノ浦の戦いで、彼は自害を快く思わず、京の都に落ち延び、その後但馬国で潜伏生活へ入った。盛嗣は城崎郡気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われている。その後盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っている。
しかし源氏側は盛嗣の行方を厳しく追及しており、源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦めても誅してもまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したとされる記述が平家物語(延慶本)にもある。
1194年、捕縛された状況には諸説あるものの、盛嗣は源氏方に捕縛され、鎌倉に送られることとなった。
盛嗣は源頼朝の面前に引き出された際に「今は運尽きてかように搦め召し候上は、力及び候はず。とくとく道を召せ」と堂々と自説を述べ、ついに由比ヶ浜にて斬首された。