平賀広相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平賀広相(ひらがひろすけ、大永8年(1528年) - 永禄10年(1567年))は、戦国時代の人物。安芸の国人平賀氏当主。のち毛利氏家臣。平賀興貞の子。平賀隆宗の弟。平賀元相の父。蔵人大夫。頭崎城城主。新九郎。
広相の平賀氏は出羽が出自で、鎌倉時代に安芸に移住し土着した一族とされている。戦国時代には他の安芸の国人領主と同様、周防の大内氏の影響下にあったが、出雲の尼子氏が台頭し尼子晴久が安芸に侵攻してきた際には、父の興貞と子の隆宗・広相らが敵味方に分かれ戦っている。吉田郡山城の戦いで晴久が敗れた後は、尼子方に属した父の興貞が引退し兄の隆宗が家督を継いでいる。しかし、このときの振る舞いから平賀氏は大内義隆の不興を買っていたのか、1548年、隆宗が備後において戦没した際には家督は広相ではなく、義隆の近臣である平賀隆保が養子として平賀氏を継承している。1551年、大寧寺の変により義隆が自刃すると、広相は隠居の祖父平賀弘保とともに挙兵し毛利元就の後援の元、隆保を滅ぼし、平賀氏の家督を取り戻した。その後は毛利氏に味方し、厳島の戦いの前哨戦において活躍した。