平野義太郎
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平野義太郎(ひらの よしたろう、明治30年(1897年)3月5日-昭和55年(1980年)2月8日)は日本のマルクス主義法学者、平和運動家。第一高等学校を経て、1921年、東京帝国大学法学部卒、同助手。
1923年、東京帝国大学法学部助教授。1927-30年、フランクフルト大学に留学してマルクス主義を研究する。30年、共産党シンパ事件により辞職。戦争中の大東亜戦争賛美により戦後は教職追放。しかし共産党の組織力を背景にして復権し、20年間にわたって日本平和委員会会長を務めるなど、平和運動家となる。
もともとは民法、ゲルマン法の研究者として出発したが、『日本資本主義発達史講座』に参加して講座派の論客として知られるようになった。
[編集] 著作
- 『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』(有斐閣、1924年)
- 『法律における階級闘争』(改造社、1925年)
- 『日本資本主義社会の機構』(岩波書店、1934年)
- 『民族政治学の理論』(日本評論社、1943年)
- 『民族政治の基本問題』(小山書店、1944年)
- 『大アジア主義の歴史的基礎』(河出書房、1945年)
- 『日本資本主義社会の機構と法律』(明善書店、1948年)
- 『自由民権運動とその発展』(新日本出版社、1977年)
- 『平野義太郎著作集』(全6巻、白石書店)
[編集] 外部リンク
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