マルクス主義
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マルクス主義(マルクスしゅぎ、独: Marxismus)とは、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって展開された思想をベースとして確立された思想体系の名称である。
エンゲルスは1883年に『空想から科学への社会主義の発展』を出版し、彼やマルクスの思想を社会主義思想、唯物論、資本主義分析の三つの分野に分けて解説した上で、唯物史観と剰余価値説によって社会主義は科学となった、と宣言した。これ以来、マルクス主義は科学的社会主義とも呼ばれるようになった。レーニンは1913年に「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」を書き、ドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義をマルクス主義の三つの源泉とした。
目次 |
[編集] マルクス、エンゲルスの思想
[編集] 共産主義
マルクスとエンゲルスは、1847年に設立された共産主義者同盟の綱領の起草を委託され、1848年に『共産党宣言』を書いた。人類の歴史を階級闘争の歴史とし、近代社会をブルジョアジーとプロレタリアートの対立によって特徴づけた上で、プロレタリアートによる政治権力の奪取と私有財産の廃止を呼びかけた。私有財産の廃止によって階級闘争の歴史は終わり、階級支配のための政治権力も死滅するとした。
マルクスは1864年に設立された国際労働者協会の創立宣言を書いた。1871年にフランスでパリ・コンミューンが成立すると、国際労働者協会総評議会の全協会員への呼びかけとして『フランスの内乱』を書き、パリ・コンミューンを「本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級にたいする生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった」と称賛した。エンゲルスは1891年に発行されたこの著作のドイツ語第三版の序文で、パリ・コンミューンをプロレタリアート独裁の実例とした。
ドイツの労働者政党の綱領草案に対する批判として1875年に書かれた『ゴータ綱領批判』において、マルクスは共産主義社会を低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するという見解を述べた。また、資本主義社会から共産主義社会への過渡期における国家をプロレタリアート独裁とした。
[編集] 唯物論的歴史観(唯物史観)
マルクスはヘーゲル左派として出発し、1840年代に起こったヘーゲル左派の内部論争の過程でヘーゲルの観念論やフォイエルバッハの唯物論を批判しつつ独自の唯物論的歴史観を形成した。法律や国家の基礎にあるのは経済だとする見方であり、以後彼は経済学の研究に集中することになった。その成果となった1859年発行の『経済学批判』の序文において、彼は唯物論的歴史観を一般的に次のように説明した。
- 生産力の発展に対応する生産関係が社会の土台である。
- この土台の上に法律的・政治的上部構造が立つ。土台が上部構造を制約する。
- 生産力が発展すると古い生産関係は桎梏に変わる。そこで社会革命が始まり、上部構造が変革される。
- 生産関係の歴史的段階にはアジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的生産関係がある。
- 近代ブルジョア的生産関係は最後の敵対的生産関係である。その終わりとともに人間社会の前史も終わる。
ここで書かれたものが一般に唯物史観の公式と呼ばれる。
[編集] 経済学
マルクスの経済学研究は『資本論』として結実した。1867年に第一巻が出版され、1873年に第一巻第二版が出版された。マルクスの死後、エンゲルスが草稿を編集して第二巻と第三巻を出版した。
マルクスはスミスやリカードの労働価値説を発展させて剰余価値説をうちたて、これによって資本家による労働者の搾取を解明した。彼によれば、資本家は労働者が提供する労働力に対して賃金を支払い、支払った分を超える価値を生み出すよう労働させることによって、超過分を剰余価値として取得する。この剰余価値が資本の利潤となる。土地所有者が土地に対して得る地代、銀行が貸し付けた資金に対して得る利子は、この剰余価値または利潤の一部である。
剰余価値説に基づく資本主義経済の運動法則の解明は、労働者階級の解放、階級の廃止という共産主義の理想に理論的根拠を与えることになった。
[編集] 歴史的展開
その運動は19世紀末にベルンシュタインによる修正主義を生み、議会制民主主義と段階的な社会改良による社会主義への平和的・連続的な移行を説くようになり、一方、レーニンによるロシア共産主義は、議会主義の未発達なロシアの現状から武力による革命と革命の前衛党である共産党の独裁を強調した。ロシアでは資本主義批判は階級憎悪へと変容し、ソ連以後に成立した共産主義国家ではマルクス主義の名の下に資本家の迫害・追放・粛清が行われた。
マルクス本人の「これをマルクス主義というのなら、私はマルクス主義者ではない」という発言もあり、何を以てマルクス主義と定義するかという論争はマルクスとエンゲルスの死後にいっそう活発に行われた。「正統なマルクスの後継者は誰なのか」「科学的社会主義の正しい理解とは?」ということが労働者に基盤を持つ革命家たちの焦眉の課題となっていき、マルクスの残したテキストはドイツ、またはロシア社会民主党員の間では政治闘争の武器となってしまった。
1917年のロシア革命をレーニンらがプロレタリア独裁をめざす革命と規定したことにより、『マルクス主義の実現を果たした』ロシア(ソ連)のレーニンが、そしてレーニン死後は書記長として権力を掌握したスターリンが、マルクス主義の最高権威であるとされた。理論の正統性なるものが一部の人物や傾向に独占されたことは、共産主義運動内部での理論的批判を著しく困難にした。同じマルクス主義でもレフ・トロツキーやローザ・ルクセンブルクの著作は、レーニンやスターリンに対する反逆として共産主義運動から追放され、その他のブハーリンなどの異論はスターリン時代のテロリズムや粛清裁判で物理的に排除された。従って、毛沢東のようなマルクスの予想の埒外の革命戦略は、マルクス理論に照らして検証されず、中華人民共和国がソ連から自立したときにかえって中ソ論争の火種となったと考えられる。イタリア共産党創立者のグラムシのような、現代でも豊かな可能性がある社会思想が積極的に紹介されたのは、スターリン死後のことである。
ソ連型のマルクス主義(マルクス・レーニン主義、その後継としてのスターリン主義)に対して、西欧のマルクス主義者は異論や批判的立場を持つ者も少なくなかったが、最初に西欧型のマルクス主義を提示したのは哲学者のルカーチだった。ルカーチはソ連型マルクス主義の弾圧に屈したが、ドイツのフランクフルト学派と呼ばれるマルクス主義者たちは、アドルノやベンヤミンを筆頭に、ソ連型マルクス主義のような権威主義に対する徹底した批判を展開し、西欧のモダニズムと深く結びついた「批判理論」と呼ばれる新しいマルクス主義を展開し、ポストモダンとされる現代思想に対しても深い影響力を見せている。
20世紀に入って、マルクス主義を思想的基盤として、ソビエト連邦をはじめ、アジア・東欧・アフリカ・カリブ海域において、多くのソ連型マルクス主義(スターリン主義)による社会主義国が生まれた。しかし、1991年のソビエト連邦崩壊に前後して、そのほとんどは姿を消した。国家自体は維持したまま社会主義体制を放棄したケースもあれば、社会主義体制放棄とともに複数の新たな国家に分裂したケース(旧ユーゴスラビアなど)や、近隣の資本主義国に吸収統合される形で国家ごと消滅したケース(旧東ドイツなど)もあった。
改革開放以降、市場経済が本格的に定着した中華人民共和国では、寧ろ半儒教的だった毛沢東時代とは違ってマルクス主義の経済発展段階の学説に忠実であり、その究極地点こそが共産主義だと認識されている。現に1987年に中国共産党は現在の状態を生産力が低い初期段階に規定し、あくまで整合性が保たれていることを確認した。ベトナム社会主義共和国(ドイモイを参照)やラオス人民民主共和国も経済開放政策を導入した。一連の政策は恐らくレーニン政権末期のソ連の新経済政策(NEP)が根拠になっていると思われる。
一方キューバ共和国や朝鮮民主主義人民共和国は独自の路線を歩んでいるが、北朝鮮については1990年に国是の主体思想はすでにマルクス主義と立場を異にしていると宣言、マルクス主義の看板を降ろし、以降は公式プロパガンダの内容や立場を変える頻度が劇的に増えている。
[編集] 基本文献
- マルクス:『資本論』
- マルクス、エンゲルス:『ドイツ・イデオロギー』
- マルクス、エンゲルス:『共産党宣言』
- レーニン:『国家と革命』
- トロツキー:『裏切られた革命』
- ルカーチ:『歴史と階級意識』
- マルクーゼ:『理性と革命』
- アドルノ、ホルクハイマー:『啓蒙の弁証法』
- 廣松渉:『存在と意味』