廷臣八十八卿列参事件
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廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょう れつざじけん)は日米修好通商条約を巡っておきた、公家側からのデモンストレーション事件である。
[編集] 経緯
日米修好通商条約締結にあたり、水戸藩を中心とした攘夷論を抑えるべく、孝明天皇の勅許を得ることにし、老中・堀田正睦が参内、安政5年(1858年)3月に関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を出したところ、岩倉具視・中山忠能等合計88人の公卿たちが条約案の撤回を求め、抗議の座り込みを行った。その結果、88人の公卿たちの強硬な意見に影響されて孝明天皇も条約締結反対の立場を明確にし、条約の勅許を頑強に拒否する結果となった。
条約の勅許を得られなかった責任を取る形で堀田正睦は老中辞職に追い込まれ、井伊直弼主導のもと幕府による88人の当事者の処罰に動くこととなり、公家側からは多くの処罰者が出ることとなる。
[編集] 歴史的背景及び意義
江戸時代以来、公家社会は禁中並公家諸法度により、政治的には徳川幕府が派遣する京都所司代の下で強圧的な統制下におかれていた。更に、五摂家や武家伝奏となった者のようなごく一握りの者以外の公家の大多数は経済面においても内職をせざるを得ないほど苦しい立場におかれていた。
そこに幕府から条約の勅許を打診されたことを契機に、今までの江戸幕府に対する政治的・経済的な鬱屈が、中・下級の公家たちによる抗議活動の形で爆発するとなった。
彼等の動きにより条約の勅許阻止が実現したことは、江戸幕府の権威失墜を招く結果となり、これ以降の朝廷が幕末における重要なファクターとなる契機となる(参加した公家についてはCategory:廷臣八十八卿を参照のこと)。
[編集] 関連
- 廷臣二十二卿列参事件
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