建部政醇
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建部 政醇(たけべ まさあつ、寛政7年(1795年) - 明治8年(1875年))は、播磨国林田藩の第8代藩主。父は第7代藩主・建部政賢(政醇は四男)。母は真田信安の娘。正室は松平信明の娘。子に政和、土井利教、政世、揆。官位は従五位下、内匠頭。
幼名は鶴太郎。文化9年(1812年)9月、父の隠居により跡を継ぐ。清水浜臣に師事して国学を学び、石野充蔵を招聘して藩士子弟の教育化に務めた。天保8年(1837年)、医学院講員となる。弘化4年(1847年)には将軍の侍医となった。嘉永2年(1849年)2月、子の建部政和に家督を譲って隠居し、聖岡と号した。明治8年(1875年)、81歳で死去。墓所:京都市北区紫野の大徳寺芳春院。
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