張バク
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張邈(ちょうばく、155年?-195年)は、東平郡寿張の人。後漢末期の陳留郡の太守。字は孟卓。張超の兄。後漢の八俊(八厨?)の一人。
若い頃から男伊達で気前がよく、曹操や袁紹とも親友のように仲が良かった。袁紹とは、「奔走の友」と呼ばれる契りを結び、曹操とは、互いが死んだ時に家族の面倒を見る事を約束するほどに仲が良かったと言われている。頭脳の明晰さと徳行で官界に知られるようになり、後漢王朝に仕えて騎都尉を務めた後、陳留郡の太守となった。
袁紹を盟主として董卓を討つ連合軍が結成された時、張邈は、曹操らとともに連合軍の第六鎮として参戦した。この時、袁紹が、董卓を討つべく集まった諸侯に対して奢ったふるまいを見せた事があった。張邈は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになる。また、後に李傕に敗れて落ち延びてきた呂布と親交を結ぶのだが、それが原因で袁紹の不興を買ってしまう。以前に袁紹と呂布とは諍いを起こしており、呂布が張邈の下に逗留していたのは、袁紹によって厄介払いされたものが転がり込んでいた為である。
いずれの時も、曹操が袁紹にとりなしたため、危うく難を逃れている。 しかし、張邈は、こうして曹操に命を助けておいてもらいながらも、『いつか、曹操が袁紹との友情を優先して、自分を殺すのではないか』と、曹操に疑念を抱くようになったとも記されている。
193年、曹操は徐州の陶謙を攻めるために本拠を留守にした。張邈は、食客として遇していた呂布、陳宮の両名から、「今こそ曹操の領地を奪う好機」と唆され、また、曹操と不仲だった弟の張超にも諭され、彼らと結託して曹操に対し反乱を起こす。
目上の袁紹との間に立ち、自らの立場を悪くしてまでもとりなしていたように、曹操にとっての張邈は、利害関係を超えた存在である。曹操は、その張邈に本拠地を任せていた事から、変事が起こるなどとは全く警戒していなかった。
張邈の裏切りは、こうした曹操の信頼に対する痛烈なしっぺ返しである。また、曹操自身、張邈と袁紹の間に立たされた事で、袁紹との関係を悪化させていた。これに、呂布の抱えていた旗本、曹操の閣僚の一人でもあった陳宮の裏切り、など、張邈軍の反乱には、有利になる条件が決断した時点で揃っていた。張邈軍は兵の衆寡を覆し、初戦から連戦連勝。短期間で曹操の本拠地である兗州の大半を占領した。急報を聞きつけ、遠征先の徐州から引き返し、逆襲を期する曹操軍を返り討ちにする事にも成功した。しかし、荀彧と程昱が守る3城を落とせず、曹操の勢力に止めを刺す事は出来なかった。
翌々年の195年には、勢いを盛り返した曹操に敗れ、兗州から撤退。呂布や陳宮らは、陶謙から徐州を譲り受けていた劉備を頼って落ち延びた。張邈自身は、陳留に居た弟の張超らと分断されていた。張邈は、陳留の一族を救出するため袁術に援軍を求めに向かう途上、部下の裏切りにあい、殺された。前後して陳留は落ち、張超など張邈の遺族は、曹操の追及を逃れて雍丘に移った。
翌196年、雍丘は曹操軍の攻撃によって陥落。張超は焼身自殺し、張邈の三族(父母・兄弟・実子と養子)も、曹操によって皆殺しの刑に処せられた。