張安世
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張 安世(ちょう あんせい 生年不詳 - 紀元前62年)は、前漢の武帝から宣帝時代にかけての武将である。長安付近の杜陵(陜西省東南方面)の人。酷吏として有名だった御史大夫の張湯の長子で、掖廷令の張賀(文献によっては張賀の弟の説あり)の実兄。子に早世した張彊と嗣子の張延寿がいる。また弟の張賀が早世したために、その遺児で甥でもある張彭祖を養子にしたという(また、その張彭祖は宣帝の学友だったといわれる)。
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[編集] 略要
[編集] 若き日
なお、この人物の記述は、『漢書』(班固著)に記されているという。
紀元前115年に父の張湯が御史中丞・李文を冤罪で処刑するなど今までの悪事が露見され、廷尉の趙禹と丞相の荘青翟や配下の3人の丞相長史朱買臣・王朝・辺通らの告発で、父は追い詰められて自決し、悲惨な死を遂げた。ところが、張湯の生母(張安世の祖母)は、息子達や孫らが亡き張湯の遺体を丁重に埋葬すべきと思ったが、彼女は「湯は陛下のお偉い大臣でしたが、あの子は生前に他人さまに対して、散々に汚い罵詈雑言を吐き出して、多くの人々に迷惑を蒙って自分で勝手に死んだのです。このまま適当に葬りなさい!」と毅然として言い、その遺体には牛車に積まれた質素な棺桶に入れて葬ったという。これを聞いた武帝は有能な張湯の死を惜しんだこともあり「あの老母はさすがに張湯の母だけのことはあるな」と絶賛した。やがて、武帝は趙禹を燕の宰相に左遷し、荘青翟に死を賜り、さらに朱買臣・王朝・辺通らをその家族共々に処刑し晒し首として、張湯の遺族に報いてを優遇した。やがて、張湯の嫡子の張安世を自分の近侍として置いて、常に可愛がったという。この事項は『史記』「酷吏列伝」に詳しく記されている。
[編集] その栄華
やがて、張安世は父譲りの有能な人材だけあって、間もなく尚書に任命されて昇進した。弟の張賀は太子・劉拠の孫の劉詢(宣帝)の教育係になったという。また、『漢書』によると、行幸中の武帝が大事にしていたある書籍を紛失してしまう。だが、たまたま張安世がその本の内容を暗記していた。それで、彼は老帝(武帝)のためにその内容を全て暗唱して、武帝から「安世は暗記の名人である」と大いに絶賛されたという。やがて武帝が崩御して、その末子の劉弗陵(昭帝)の代になると、車騎将軍に任命された。また大将軍の霍光の信頼も厚かったという。紀元前74年に昭帝が亡くなり昌邑王の劉賀が即位すると、霍光の命で張安世は近衛兵を率いて、郎中令の龔遂と中尉の王吉ら昌邑王の三百名の家臣を逮捕した。(但し、龔遂と王吉そして劉賀の学問の師である王式らは事前に霍光に賄賂を贈ったために助命された。だがその他は処刑されたという)その時に処刑された三百名の家臣は事前に「おのれ~!!われらは霍光と張安世らを討たなかったばかりに、こんな無惨な結末に遭うたぞ!」と叫んだという。
ちなみに原文は、
- ―当(まさ)に断つべきを断たず、其(そ)ってその乱を受く!―
と『漢書』「霍光伝」 に詳しく記されている。
[編集] その晩年
やがて霍光と張安世らが宣帝(劉詢)を擁立し、張安世はその功績で宣帝から右将軍に昇進された。紀元前68年に霍光が亡くなると、宣帝は専横を極めた霍氏の弱体化のために、いったん張安世を解任した。だが彼は宣帝の信頼が厚いためにすぐに衛将軍に任命され、さらに富平侯に封じられたという。さらにこんな逸話がある。宣帝が霍光在命中に馬車で霍光と隣合わせで乗車した時は、肩が張って表情が強張ったという。だが、霍光が亡くなり代わりに張安世が隣合わせて乗車した時は、帝はリラックスし表情も穏やかだったという。これは宣帝自身が霍光よりも遙かに張安世を信頼したことを物語る当時の状況が窺える。やがて彼は大司馬に任命された。紀元前62年に亡くなり、敬侯の諡号を送られた。
[編集] その後裔
やがて、子の張延寿(繆侯)が跡を継いだ。引き続きその子の張勃(共侯)・張臨(思侯)・張放(節侯)と富平侯は世襲し相続された。だが王莽の時代になると爵位を剥奪された。張放の子の張純は後漢の劉秀に仕えて、改めて武始侯に封じられたという。後に彼が亡くなると子の張奮が跡を継いで、孫の張甫・曾孫の張吉と続いたが、張吉に嗣子がなく張湯・張安世の系統はついに断絶したという。