霍光
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霍 光(かく こう ? - 紀元前68年)は、字を子孟(しもう)と言い、前漢の政治家。霍去病の異母弟。
武帝に仕え、その信任が厚かった。紀元前87年、武帝が亡くなるとき、まだ8歳の幼い皇帝(昭帝)の補佐が出来る人物は霍光以外に居ないと思い、霍光を大司馬大将軍に任じ金日磾(きんじつてい)と共に、これを補佐させた。
一方、燕王劉旦は、昭帝の兄であるのに帝位につけなかったことを恨みに思っていた。そこで、霍光を排除して昭帝を廃しようとたくらんでいた。燕王と上官桀は、謀を巡らせて、昭帝に讒言し、霍光を廃することを讒言させたが昭帝は取り合わなかった。その為、兵を伏せ霍光を討ち、昭帝を廃するたくらみを起こしたが、事は未然にばれ、燕王は自殺し、上官桀は誅殺された。
成人してからも霍光は昭帝の信任厚く治世13年の間すべて政治を霍光に取り仕切らせた。
紀元前74年、昭帝が亡くなると子がいなかったため霍光は、昌邑王・劉賀を帝位につけた。しかし行いが酷いためにわずか27日で廃され、代わりに武帝の曾孫の宣帝が帝位についた。霍光は引き続き大司馬大将軍として漢の政治を一任されていたが、紀元前68年に亡くなった。
武帝亡き後の漢の政治を速やかにした霍光の功績は偉大であったが、彼自身はひたすら身を慎み、僭越な振る舞いや専横を避け、徒に目だって身を滅ぼすことのないようにした。しかし、霍光以外の一族は、霍光の威勢を恃んで傲慢であり、宣帝の皇后(許氏)を毒殺し、代わりに自分達の一族の娘を皇后に立てるなど暴慢な振る舞いが目立った。彼らは霍光ほどの人望も人柄も無かったことから、霍光亡きあと宣帝に実権を奪われ、宣帝により一族皆殺しの目にあった。
[編集] 霍光と日本の「関白」
日本で平安時代以降明治時代の王政復古にいたるまで実質上の宰相であった関白の称号は、劉賀と同様に廃位されることを恐れ、尚且つ民間から迎えられたばかりで信頼できる官僚集団を持っていなかった宣帝が、即位当初に発した霍光に政権を委ねる旨の詔に用いられた文言に始まるといわれている。また、関白の異名として「博陸」とも称した。博陸とは、霍光が博陸侯であったことに由来している。
その初代関白である藤原基経は、陽成天皇を廃して光孝天皇を擁立した。このため、人々は基経の振舞いを昌邑王・劉賀を廃して宣帝を迎えた霍光のそれに擬えたといわれている。