弾正台
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弾正台(だんじょうだい、彈正臺)は、律令体制時代の監察・警察機構。四等官制における四等官はカミが尹(いん)、スケは大弼(だいひつ)、少弼(しょうひつ)が各1名、ジョウは大忠(だいちゅう)1人、少忠(しょうちゅう)2名、サカンは大疏(だいそ)1名、少疏(しょうそ)2名がいた。その下には台掌(だいしょう)、巡察弾正などの役も置かれた。織田信長も弾正忠に任ぜられたことがある。1869年(明治2年)に改めて設置されるが、1871年(明治4年)司法省に統合。
[編集] 律令官制
主に中央行政の監察、京内の風俗の取り締まりなどが職務で、左大臣以下の非違を摘発し、奏聞できた。太政官の影響を受けないように独立した機関として設置された。しかし実際は太政官の因事管隷のもと、充分機能した例は少ない。裁判権・警察権も刑部省・各官司が握っていたため非違を発見した場合、直接逮捕・裁判する権限はない。嵯峨天皇時代に検非違使が創設されて以来、徐々に権限を奪われ形式化し有名無実となった。尹は従三位相当官で親王が任ぜられることが多かった。
[編集] 近代官制
明治時代に入ってから監察機関として復活したが、守旧派が多く占め、新政府の改革政策に反対する方針を採ったために他の官庁との対立が深まった。特に横井小楠や大村益次郎が暗殺された時には、取り締まるべき弾正台が横井や大村の政策を非難して暗殺を彼らの自業自得扱いして却って暗殺犯の減刑を主張するに至り、刑部省と統合される事になり同省は司法省と改称した。