後主 (北斉)
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姓名 | 高緯 |
年号 | |
廟号 | - |
字 | 仁綱 |
諡号 | - |
生没年 | 556年-578年 |
在位 | 565年-576年 |
父 | 武成帝(長子) |
母 | 胡皇后 |
後主(こうしゅ 556年-578年 在位565年-576年) 中国北斉5代目(事実上最後の)皇帝。諱は緯。武成帝の息子、子に幼主。北斉が滅びた後は温公に封ぜられる。
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[編集] 略歴
父親から皇位を譲られ、その一年後には父親の死去によって親政するものの暗愚であり、和士開や高阿那肱、穆提婆といった奸臣たちを信任して国力を大きく衰退させてしまう。重臣王族たちが彼らの讒言によって殺され、特に斛律光を粛清して、高長恭を自殺に追い込んでからは軍事力が衰退し、それまで軍事的に圧倒的な有利さを保持していた陳にでさえ国土を侵食される羽目になる。
その有様を見た北周の武帝は出兵を決意。575年に侵攻が始まると瞬く間に国土は侵食され、576年に押し付けるような形で幼主に譲位、北斉国内を逃げ回るものの結局は部下に裏切られ、577年に青州(現在の山東省益都)で幼主ともども北周に囚われて北斉は滅亡する。その後、温公に封ぜられるものの578年に一族もろとも殺される。
[編集] 逸話
- 自ら琵琶を弾き、「無愁の曲」を作った。近侍が一斉に和したので民間からは「無愁天子」と呼ばれた。
- ある王に「任地にいた時、何が楽しかった」と聞くと「蠍をたくさん入れた穴の中に人を入れてもがき苦しむ様を見るのが楽しかった」と言ったので、同じようなことをさせるとその王を叱りつけた「なぜ、このように面白いことを隠しておったのだ」と
- 落とされた平陽を奪還しに行った時、あと一押しで落とせるところまでいったが馮淑妃と共に落城する様を見物しようと攻撃を止めさせた。馮淑妃の化粧に時間を取られたので結局は落とすことができなかった。
- 陳に侵略された時、さすがに顔色は失ったものの臣下に「まだ淮河以南を失われたにすぎません。黄河以南を失われたとしても我が国には亀慈くらいの国力があります。一生遊び暮らすには充分ではありませんか」といわれてそのまま納得してしまった。
[編集] 評価
暗君としかいいようがない人物。
こんな人物でも北斉の皇帝になれたのは、高歓の息子たちに皇位を簒奪できるほどの人物がいなくなっただけに過ぎない。奸臣を近づけて能臣忠臣を殺害する、贅沢を楽しみ色を好む、あげくの果てには紂王よろしく酷刑を楽しむなど、暗君のやることを一通り行った。 特に高長恭、斛律光を粛清したのは致命的であり(斛律光が粛清されたと知るや北周では大赦を行った)、北周の侵攻が始まると指揮を取れるものがいなくなって2年余りで滅ぼされることになる。その時も攻めるべき時には攻めず、踏みとどまるべきところでは逃げ、国が滅びようとした時に財貨を惜しむなど醜態をさらした。
陳の後主と比較されるところではあるが、陳の後主は文化的には見るべきところがあり後主のように酷刑を楽しむようなところはなかったから人物的には陳の後主よりも下としかいいようがない。
しかし、北斉は建国当時から宗室の反乱と粛清が相次ぎ、歴代君主も暴虐な人間が続いたのだから北斉を締めくくるにはふさわしい君主だったかもしれない。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 斛律皇后
- 胡皇后
- 穆皇后
[編集] 子
- 幼主 高恒
- 東平王 高恪
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