後主 (陳)
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陳の後主(こうしゅ、553年(承聖2年11月20日) - 604年(仁寿4年11月20日))は、中国の南北朝時代陳の最後(第5代)の皇帝(在位582年 - 589年)。名は陳叔宝(ちん しゅくほう)、字は元秀。暗君の典型とされる。
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[編集] 略要・人物
[編集] 概要
第4代皇帝・宣帝の長男。生母は柳皇后、異母弟に始興王・陳叔陵ら多数の弟がいる。子に廃太子の陳胤(初めは永康公)と、その異母弟で太子の陳深(母は妃の張麗華)と、内親王の楽昌公主(生母は不詳、太子舎人の徐徳言の夫人)がいる。
[編集] 生涯
施文慶・沈客卿ら奸臣を用い、張麗華を寵愛して歌舞音曲にふけり国政を顧みなかった。また、588年(禎明2年)に、腹心の吏部尚書蔡徴の讒言によって、長男で皇太子の陳胤を廃嫡して呉興王に降格し、次男揚州刺史・始安王の陳深を新太子と定めるなどした。このため国政は乱れ陳の国力は大きく衰えた。もっとも当時は既に隋が北朝を統一し、小国だった陳と比べて圧倒的な国力を誇っており、彼が政治に励んだ処で対抗できたかは疑わしい。
589年隋は南北統一を目指し侵攻して来たが、陳の軍勢は抵抗らしい抵抗は殆どせず、後主に至っては寵愛する張麗華・孔貴人と共に井戸に潜んで隠れているという有様であった。こうして陳は五代32年で滅亡した。
当時亡国の王は反乱を予防するため殺されるのが通例であったが、彼は暗愚ゆえに警戒されることもなくこれを免れた。だが、妃の張麗華は夫に代わって政務を執り仕切ったという理由で、隋帝楊堅の次子の晋王楊広から「女の分際で夫に代わって政治を行なうとは何事だ!まるで殷の妲己のような忌わしい女だな。だから国が滅ぶのだ」と罵られ、青渓中橋に曳き出されて、楊広の命を受けた将軍の高熲の手によって惨殺された。齢31。ただしこれについては高熲が「美人は国を滅ぼす」と楊広による保護依頼を断る形で殺した、という説もある。
その後、後主は都長安に送られそこで暮らしたが、楊堅の行幸に随行したり酒宴に侍るなどし、亡国や妻が惨殺されたことを全く恥じなかったなど元皇帝とは思えない振舞いをしていたため警戒されず、余生を全うすることができた。604年洛陽で死去し、死後長城県公を贈られた。
余談ではあるが煬と諡名されている。治世を評価すれば悪諡が送られるのは当然なのだが、贈った側も煬と諡名されてその方が有名になってしまうのだから皮肉なものである。
[編集] 文人皇帝
政治的には暗愚な人物であったが文化人としては優れていた。詩風は艶麗で技巧的という特徴の宮体詩で、楽府を多く作った。彼の代表作で壮麗な後宮と宮女を詠じた詩「玉樹後庭花」は古来亡国の詩として忌み嫌われた。
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