徳川斉荘
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徳川斉荘(とくがわ なりたか、文化7年6月13日(1810年7月14日) - 弘化2年7月6日(1845年8月8日))は、江戸時代の大名である。天保7年(1836年)に田安徳川家4代当主、天保10年(1839年)に尾張徳川家12代当主となった。父は江戸幕府11代将軍の徳川家斉、母は側室(速成院)。幼名は要之丞。
相続時、尾張藩は支藩である高須藩主松平義建の2男秀之助(のちの徳川慶勝)を望んだが、幕府が子沢山である家斉の意を受け、押し付け養子とした。このとき、御附家老の1人である竹腰正富が藩内の説得役となったため、反発した藩士が「金鉄組」を結成した。これが幕末にいたり反幕・尊皇攘夷派への流れとなり、竹腰家を中心とした佐幕派との対立へとつながることとなる。
斉荘自身は苦労知らずの遊興好きで、苦しい藩財政を省みなかったといわれる。
子女は6人。男子は夭折したが女子の2人は成人し大名家に嫁いだ。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1812年(文化9)5月28日、将軍徳川家斉の御台所近衛寔子(広大院)の養子となる。
- 1813年(文化10)12月25日、田安徳川斉匡の養子となる。
- 1820年(文政3)6月5日、元服し、将軍徳川家斉の名の一字を賜り、斉荘と名乗る。従三位に叙し、左近衛権中将に任官し、右衛門督を兼任する。
- 1829年(文政12)7月5日、参議に補任。
- 1836年(天保7)8月21日、田安徳川家の当主となる。
- 1837年(天保8)2月28日、権中納言に転任。
- 1839年(天保10)3月27日、尾張国名古屋藩主となる。12月16日、従二位に昇叙し、権大納言に転任。
- 1845年(弘化2)7月6日、薨去。法名:大覚院性譽惟徳源懿。墓所:名古屋市東区筒井の徳興山建中寺。
[編集] 系譜
[編集] 関連項目
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