悪党
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悪党(あくとう)とは、一般的に社会の秩序を乱す者を意味する言葉で、日本史においては中世の鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した、既得権益を守るために荘園領主など外部勢力に抵抗する「自主独立の武士の集団」を指す。なお、この場合の悪党とは「悪い」というよりも「強い」などといった意味の強い語である。
元寇の前後から見られ、鎌倉幕府は地頭に対して討伐を命じていた。悪党とは中央権力から見て荘園を侵して荘園領主や公武政権に反抗する者などを総括した呼び方で、蝦夷や海賊的活動を行う海民なども悪党と呼ばれた。つまり当時の権力、特に社会秩序を維持するための実力行使権限を持った幕府から見て社会秩序から外れているものは全て「悪党」と呼ばれる可能性があり、諸国を旅する芸能民や僧団なども悪党的性格を持つとみなされていたと考えられている。悪党は一見異様で奇抜な服装の者が多かったという。
元寇後に発生した御家人に対する恩賞問題など社会的矛盾が発生し、鎌倉時代後期に永仁の徳政令が発布されると荘園制度の解体が始まる。悪党は畿内や東北、九州など各地で活発に活動し、「御成敗式目」で禁止されている悪党と地頭の結託も行われるようになり、領地を失った無足御家人の救済と並んで幕府の政治課題となる。また、無足御家人が旧領地に残留し、新領主の支配を妨害して悪党と呼ばれているケースも見られる。
伊賀国名張郡、東大寺の荘園である黒田荘の武士や、河内国で楠木正成らが倒幕、後に南朝方として戦った楠木氏や、同じく赤松則村(円心)らが倒幕に参加する播磨国の赤松氏、瀬戸内海の海賊集団などが悪党の代表例として知られる。
戦後の歴史学においては、悪党は封建領主制のなかで位置づけられていたが、網野善彦、佐藤進一らが社会的基盤を農業以外に置く手工業民や芸能民などに着目した中世史観を提示すると、悪党の存在もそれらと関連付けて論じられるようになり、元寇や徳政令など政治史との関係も研究されている。