新庄城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
|
通称 |
沼田城、鵜沼城 |
城郭構造 |
輪郭式平城 |
天守構造 |
なし |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
土塁、堀、本丸門石垣 |
位置 |
新庄城(しんじょうじょう)は、現在の山形県新庄市堀端町に城址を残す城である。別名で沼田城(ぬまたじょう)、鵜沼城(うぬまじょう)と呼ばれる。
目次 |
[編集] 概要
新庄城は、戸沢氏新庄藩6万石(のちに6万8200石)の本拠として現在の山形県新庄市堀端町に築城された平城。本丸の南側に出丸のように小さな二の丸が並列状に配置され、その外側を三の丸が囲む形となっている。本丸及び二の丸、三の丸の堀の水は城の北を流れる差指野川(さすのかわ)から引かれた。 最上氏改易後に入封した戸沢政盛は当初真室城(鮭延城)に入城したが、手狭であることと、山城のための不便さから幕府に願い出て、当地に築城した。なお、縄張は同一時期に山形城に入封した鳥居忠政によるものである。
時代は下り、慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では新庄藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と敵対する。そして一時は庄内藩と協力して新政府軍を圧倒したが、まもなく新政府軍の反撃に遭って新庄藩は勝手に戦線を離脱し、幕府軍敗走の一因を作った。これに激怒した庄内藩によって新庄城は攻め落とされた。当時の藩主正実は命からがら久保田藩(秋田藩)へ逃げ延びたという。
新庄城は、現在そのほとんどが失われ、本丸址が戸澤神社、護国神社、天満神社が鎮座しており、護国神社の裏にはささやかな稲荷神社がある。本丸跡、二の丸跡を含めて最上公園として市民に開放されている。最上公園は、春の「かど(ニシン)焼き大会」の会場となり、また、夏は天満神社の縁の祭りの新庄祭が開催される。なお、新庄ふるさと歴史センター近くでは三の丸堀跡もひっそりと確認することが出来る。三の丸堀(二の堀)の反対側に当たる現在の堀端町は、家老などが住む武家屋敷であった。
[編集] 歴史
[編集] 城郭
本丸には御殿(天守はなし)、三の丸には藩の政庁が置かれた。
[編集] 本丸
- 設備:御殿、土塁、濠
[編集] 二の丸
- 設備:土塁、濠
[編集] 三の丸
[編集] 城下
城下町は、羽州街道に沿って商家が集まり、城下各地に職人町が作られた。羽州街道は元々「東の道」と呼ばれて神室連峰の山裾を縫っており、城域から少々離れていたが、築城を機に城下を通るように引かれた。現在も城下町当時の町割が残る地域があり、城下町によく見られるような曲がり道や丁字路が多く、往時を偲ぶことが出来なくもない。
- 定期市が立つ町
- 五日町
- 馬市が立つ町
- 馬喰町(馬口労町) 藩主が馬で城外に出る「御馬出口」もここにあった。
- 職人町
- 鍛冶町
- その他
- 鉄砲町、御長柄町、茶屋町、横町
- 遊郭
- 万場町 料亭が数軒残っているのはこれの名残
- 街道
- 羽州街道
[編集] 歴代城主
- 戸沢政盛(まさもり)<従五位下。右京亮>
- 戸沢正誠(まさのぶ)<従五位下。上総介>
- 戸沢正庸(まさつね)<従五位下。上総介>
- 戸沢正勝(まさかつ)<従五位下。上総介>
- 戸沢正諶(まさのぶ)<従五位下。上総介>
- 戸沢正産(まさただ)<従五位下。上総介>
- 戸沢正良(まさすけ)<従五位下。主計頭>
- 戸沢正親(まさちか)<従五位下。上総介>
- 戸沢正胤(まさたね)<従五位下。右京亮>
- 戸沢正令(まさよし)<従五位下。能登守>
- 戸沢正実(まさざね)<従四位下。上総介>