日本国大君
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日本国大君(にほんこくたいくん、Tycoon)とは、日本の江戸時代に対外的に用いられた、徳川将軍の外交称号。江戸幕府が外交文書(国書)において使用し、はじめは朝鮮との間で用いられ、のちに琉球やヨーロッパ諸国との外交関係でも用いられた。略称は「大君」。
大君の語は『易経』に由来し、「大君命あり、国を開き家を承く」「武人大君と為る」「知あって臨む。大君の宜(ぎ)なり」などとみえるもので、いずれも天子を指す。また、英語で「実力者」や「大物」を意味する「tycoon」の語源となった。
日本で支配者を意味する称号としては、室町時代に足利将軍(室町殿)が中国の明朝から冊封を受けて「日本国王」となり、外交文書においては国王号が使用されていた。日本国王は中華王朝との宗属関係を意味する号であった。江戸時代には、豊臣秀吉の朝鮮出兵で断絶していた日朝、日明関係の国交修復がなされ、3代将軍徳川家光時代には対馬の宗氏を仲介に李氏朝鮮との交渉が行われる。朝鮮との貿易に依存していた宗氏は、将軍署名の独断で「日本国源家光」を「日本国王」と国書を改修し、のちに事態が発覚(柳川一件)。これを機に幕府は朝鮮に対し「大君」号と日本元号の使用を伝え、1636年(寛永13年)、来日の朝鮮通信使から正式に使用される。
6代将軍徳川家宣のとき、正徳の治と呼ばれる改革を主導した新井白石は、多額の経費を要した通信使の待遇簡略化に取り組み、白石は「大君」が朝鮮では王子の嫡子を意味する称号であり、朝鮮国王との釣り合いを取るため、返書に記される「日本国源某」を「日本国王」に変更することを建議する(大君一件)。これには反対意見もあり、8代将軍徳川吉宗時代に再び「大君」号に改められる。
日米和親条約締結以降、欧米諸国にも用いられ、1868年(明治元年)、天皇が外交権を接収するまで続いた。また、幕末の幕政改革においては、西周らにより議会政治を取り入れ、“大君”を元首とする国家体制も構想された。
[編集] 参考文献
- 平凡社 『日本史大事典』
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