昭憲皇太后
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昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、旧名:一條 美子(いちじょう はるこ)、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 大正3年(1914年)4月11日)は明治天皇の皇后。大正天皇の「嫡母」となる。病弱で実子はなかった。
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[編集] 略歴
嘉永2年(1849年)旧暦4月17日誕生。従一位・左大臣一条忠香の三女で、生母は新畑民子。右大臣一条実良(1835-1868年)の妹、徳川慶喜夫人美賀子(忠香養女、実は今出川公久の娘)の義妹。
初名は勝子(まさこ)、富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。安政5年(1858年)6月、寿栄君(すえぎみ)と改名。
慶応3年(1867年)旧暦5月18日、新帝の女御に治定、同年6月28日に女御の宣旨を被った。この際、帝より3歳上であることを忌避して、嘉永3年(1850年)の出生とされた。明治元年旧暦12月28日(1869年2月6日)、立后の時、あらためて名を美子(はるこ)とし、皇后宮職を付されたが、これと共に、従来帝の正妃に付された中宮職が廃止された。
[編集] 業績
維新期の皇后として社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現学習院女子部)や、お茶の水の東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した(赤十字社の正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后がたまたま被っていた冠が桐と竹の組み合わせで出来ていた事から、「これがよかろう」という事で決められたという)。津田梅子ら女子留学生の派遣にも関わったとされている。皇后として欧化政策の先頭に立たなければいけない立場をよく自覚しており、明治19年以降は、着用の衣服を寝間着を除いてすべて洋服に切り替えた。洋服を率先着用した理由としてもう一つ「上半身と下半身の分かれていない着物は女子の行動を制限して不自由である」という皇后自身の言葉も伝えられている。現在の皇室で意外なほど和服が着られないのは、この時の方針が踏襲されているからである。
また、生涯に三万首を超える和歌を詠み、その一部が『昭憲皇太后御集』として伝わる。 昭憲皇太后の御歌としては、明治9年(1876年)2月、東京女子高等師範学校に下賜した校歌、 「磨(みが)かずば玉も鏡もなにかせむ 学びの道もかくこそありけれ」(玉も鏡も磨かなければ何にもならない 勉強もそういうもの)が著名であり、また、華族女学校の教育指針を詠んだ「金剛石」「水は器」等も、尋常小学校唱歌として広く歌われた。
[編集] 逸話
- 明治37年(1904)2月、日露戦争の前夜、葉山の御用邸に皇后が滞在していた折であったが、三十七、八歳の武士が白衣で皇后の夢枕に立ち、戦いの際の海軍守護を誓い申し上げたという。皇后が侍臣に下問したところ、坂本龍馬の霊であると判った。これが新聞記事に載って士気を鼓舞し、霊山官祭招魂社内にある坂本龍馬の墓前に忠魂碑が立てられるに至った。
- その当時の日本女性としては珍しく鼻筋の通った女性であり、それをからかった明治天皇に「天狗さん」と言うあだ名で呼ばれていたという。
[編集] 陵墓・霊廟
大正3年(1914年)4月11日崩御。同年5月9日、宮内省告示第九号により「昭憲皇太后」と追号され、翌年5月1日に、明治天皇と共に明治神宮の祭神とされた。陵墓は伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)。
[編集] 追号について
本来ならば昭憲「皇后」とされるべき追号が「皇太后」になったいきさつについてはさまざまな憶測が語られているが、公式には当時の宮内大臣が間違って大正天皇に上奏した書類がそのまま裁可されてしまい、間違うはずのない天皇が誤りを認めて祭神となった名前を変えるわけにはいかなかったという理由であるとされている。
[編集] 伝記・関連本
- 明治神宮 編 『新抄 明治天皇御集・昭憲皇太后御集』(角川文庫、1967年刊)
- 出雲井晶 著 『エピソードでつづる昭憲皇太后』(錦正社、2001年刊)
- 若桑みどり 著 『皇后の肖像 ―昭憲皇太后の表象と女性の国民化―』(筑摩書房、2001年刊)
- 小田部雄次 著 『四代の天皇と女性たち』(文春新書、2002年刊)
- 片野真佐子 著 『皇后の近代』(講談社選書メチエ、2003年刊)
[編集] 外部リンク
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