普天間飛行場
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普天間飛行場(ふてんまひこうじょう、Marine Corps Air Station Futenma)は、沖縄県宜野湾市に立地するアメリカ海兵隊の飛行場。通称は普天間基地(ふてんまきち、MCAS FUTENMA)で、地元宜野湾市民は単に「基地」と呼ぶ。2,700mの滑走路を持ち、嘉手納基地と並んで沖縄におけるアメリカ軍の拠点となっている。
普天間飛行場 | |||
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ICAO:ROTM | |||
概略 | |||
空港種別 | 軍用 | ||
Operating Agency | U.S. Marine Corps | ||
海抜 | 247ft (75 m) | ||
位置 | 北緯26度16分27.39秒東経127度45分23.38秒 | ||
滑走路 | |||
方向 | 全長 | 表面 | |
ILS | m×幅 | ||
06/24 | NO | 2,743×46 | 舗装 |
目次 |
[編集] 地理
宜野湾市は沖縄本島中部、那覇市の北約10Kmにある。普天間飛行場(FAC6051)は宜野湾市大山二丁目に所在しており、その面積は約4.8Km2である。これは宜野湾市の面積(19.5Km2)の約25%にあたる。普天間基地を見渡せる場所として、佐喜真美術館や嘉数高台がある。
[編集] 歴史
戦前、飛行場が建設される前のこの地域にはいくつかの泉が存在し、それらを水源に畑作が営まれる丘陵地であった。また本島南部の那覇、首里と北部の国頭(くにがみ)を結ぶ交通の要衝でもあり、琉球松の並木道が続いたという。しかし1945年、琉米戦争(沖縄戦)のさなかに宜野湾一帯がアメリカ軍の支配下に置かれると、アメリカ陸軍工兵隊の発注により、中頭郡宜野湾村(当時、現宜野湾市)の一部土地を接収し、2,400m級の滑走路を持つ飛行場が建設された。1953年には滑走路が2,700m(9,000フィート)に延長され、ナイキミサイルが配備された。1960年には陸軍から海兵隊へ移管された。琉球政府が住民から土地を一括で借り上げそれを米軍海兵隊に又貸しする、そして米軍からの軍用地料(基地・飛行場の土地レンタル料)を、やはり琉球政府が住民に分配するシステムが採られたのである。1972年に沖縄返還が果たされた後は、日本政府の防衛施設局が、琉球政府から事務を引き継ぐ形で、飛行場は存続することになった。
現在でも、普天間飛行場が占める土地のうち、およそ9/10は私有地である。このため、年間61億円を超える賃借料が地主に支払われている。
[編集] 航空管制
GND | 122.8MHz,360.2MHz |
TWR | 123.6MHz,340.2MHz |
PTD | 307.4MHz |
METRO | 290.6MHz |
ATIS | 230.3MHz |
[編集] 航空保安無線施設
局名 | 種類 | 周波数 | 識別信号 | 空港からの設置距離 |
FUTENMA | TACAN | NFO | 飛行場内設置 |
[編集] 返還を巡る動き
同基地は市街地中心部を占めるため、当初から返還を求める主張があった。沖縄で米軍駐留に対する大規模な反対運動が起こったため、日米で構成する日米安全保障協議委員会(「2プラス2」)は1995年11月、沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会 (SACO) を設置する。同行動委員会が在沖縄米軍のあり方を全面的に見直し、検討の結果、1996年12月2日の最終報告で5年後から7年後までの全面返還を発表した。 しかし、この全面返還は、条件として「十分な代替施設が完成し運用可能になった後」とし、代替施設として1,300mの滑走路を備えたヘリポート(いわゆる「海上ヘリポート」)を挙げている。
海上ヘリポートの建設地として、沖縄本島東沿岸の、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ地域が、まっさきに名乗りを挙げてきた。しかし名護市では海上ヘリポートの建設を巡って賛成派と反対派が対立した。1997年に行われたアンケート(名護市民による住民投票)では反対の票が半数を占めたものの、直後の市長選挙では建設推進派の市長が、その後の選挙でも一貫して基地建設推進派の市長が、当選してきた。 また、沖縄県も当初は建設反対を表明していたが、1998年に稲嶺惠一知事は、当選後「建設後15年以内の返還」を条件として建設賛成を表明した。これらの複雑な現地事情から、SACO最終報告の発表から7年を経過した2006現在に至っても、同基地返還の具体的な見通しは立っていない。
なお、先に挙げた「軍用地料」を始めとして飛行場・軍事基地には各業界の莫大な利権が絡むため、後述する危険性にもかかわらず、現地世論が返還・撤去で一本化しないというのが返還がなかなか実現しない最大の理由である。また万一返還された場合には飛行場から排出された有害物質による土壌の汚染などで返還後の跡地利用(水源利用による畑作)の困難性を懸念するなど、現地ではなにかと理由をつけて、基地を長期に存続させたがるという実情がある。
[編集] ヘリコプター墜落事故(2004年)
2004年8月13日午後2時15分頃、アメリカ軍普天間基地所属の大型輸送ヘリコプターCH-53Dが訓練中にコントロールを失い、沖縄国際大学1号館北側に接触、墜落、炎上した。搭乗していた乗員3名は負傷したが、1号館内にいた大学職員二十数名他民間人に負傷者は出なかった。この墜落事故により同大学は電話・インターネット回線等を切断され、また接触した1号館はローターによる損傷と炎・ススによる被害を受けた。沖縄県で住宅地にアメリカ軍のヘリコプターが墜落したのは1972年の復帰後初めてのことであった。近くの民家やガソリンスタンド、保育所などにヘリコプターの部品が落下したこともあり、事故に対しては宜野湾市をはじめとした沖縄県内の各方面から非難が相次いだ。
また、事故直後、消火作業が終わった後にアメリカ軍が現場を封鎖し、事故を起こした機体を搬出するまで日本の警察・行政・大学関係者が現場に一切立ち入れなかったことも反発を招いた。さらにヘリのローターに氷結による亀裂・劣化の検出に安全装置として、ストロンチウム90という放射性物質が6個のステンレス容器に納められており、今回の事故で一つが機体の燃焼により損壊し、識別不可能になった。米国大使館の報道機関への回答によれば、ストロンチウム90は機体の燃焼、熔解で気化した可能性が高い。ただし、ストロンチウム90の沸点は1655Kである事を考慮するとやや疑念が残る。そして、アメリカ軍によって土壌や機体は回収されてしまったことで詳細を解明することは困難になった。
事故からおよそ1か月後の9月12日には事故現場の沖縄国際大学で抗議集会が行なわれ、主催者発表で3万人が参加した。これは、1995年10月に開催された沖縄米兵少女暴行事件抗議県民総決起大会(8万5千人参加)以来の大規模なもので、事件はSACO合意に基づいた普天間基地の辺野古への移設に反対する世論を作り出し、移設問題を一層深刻化させている。
[編集] 外部リンク
- 海兵隊普天間航空基地
- 宜野湾市基地政策部基地渉外課 普天間飛行場の概要
- 沖縄県総務部知事公室普天間飛行場・那覇港湾施設返還問題対策室
- 米軍ヘリ墜落事件に関する情報(沖縄国際大学)
- 米軍ヘリ墜落 ニュース特集(琉球新報)
- 在日米国大使館による米軍ヘリ墜落事故: 報道機関の質問に対する回答
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