月亭春松
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
月亭 春松(つきてい はるまつ)は、上方噺家。『落語系圖』の編者。本名は植松秀一郎。享年未詳。
1892年1月15日、月亭文都門下となり、春松を名乗る。1894年以降、東京や京都で歌舞伎・新派の劇団にも所属し、役者として活動するが、1898年、同門の月亭小文都の尽力で再び文都門下に復帰し、5代目月亭文當を名乗る。師匠の死後は2代目桂文團治の預かり弟子となり、後、再び月亭春松を名乗る。初め三友派に所属、後、浪花落語反対派から花月派(後の吉本興業部)に移り、後年は吉本興業で事務を務めたという。1922年以降の落語家連名表には名前が掲載されていないので、恐らく、その頃には落語を廃業していたと思われる。
『落語系圖』p74の「春松」の項には、「後に七代目むらく門人となり小夢となり五代目文當となり、其後春松となる」とあるが、7代目朝寝坊むらく(後の3代目三遊亭圓馬)は、春松の兄弟子に当たる月亭都勇の実子なので、年代的に合わず、不明である。あるいは7代目むらくではなく、5代目か6代目の誤りかもしれない。
[編集] 『落語系圖』について
1929年に出版された『落語系圖』は、戦前の上方落語の資料としては、数少ない体系だった資料である。前半は江戸・上方落語の諸流系図を、後半は鳴物のきっかけ表、出番表、席亭・落語家の肖像などを掲載している。写真資料が豊富なのも特徴である。
桂米朝は、その著書『上方落語ノート』p266 において、次のように述べている。「『落語系図』は貴重な本だが書き方が乱雑で、古い時代のことは今日の辞典のようなつもりで簡単に引用すると、とんでもない間違いを仕出かすことがある。誤りも少なくない。前後矛盾もあるし、要注意の資料であるが、しかし上方落語史において大事なものであることは間違いない。」
『落語系圖』は、名著刊行会から1965年、1979年の二度、復刻されている。
[編集] 出典
- 『落語系圖』 - p226に月亭春松の肖像および経歴あり。
- 『桂春団治』(富士正晴著)
- 『上方落語ノート』(桂米朝著、青蛙房、1978年)