朝寝坊むらく
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝寝坊 むらく (あさねぼう むらく)は、落語の名跡。現在は空き名跡となっている。
初代三笑亭可楽門下の三笑亭夢楽が名前を勝手に夢羅久と改名したのを機に師匠と不和になり、亭号を「朝寝房」と変えたと言われる。2代目以降は「朝寝坊むらく」と名乗っている。むらく門下から生まれた名前に朝寝坊のらくがある。
目次 |
[編集] 初代・朝寝房夢羅久
(1776年(逆算) - 1831年1月5日)最初は義太夫の富竹宮戸太夫の門で富竹宮戸志太夫と名乗る。 1803年に初代三笑亭可楽の門下で珍蝶亭夢楽、そして新蝶亭夢楽。同じ門には初代の林家の始祖。怪談噺の元祖と言われる林屋正藏がいる。1809年8月28日に朝寝房夢羅久と改名し盛大に咄を催した。勝手に改名したのを機に師匠と不和になり破門され「朝寝房」と変えたと言われる。烏亭焉馬の門にいたことがありその時は笑語楼夢羅久としていた。人情噺の祖。俗称は里見晋兵衛。享年55。
[編集] 2代目
最初は13才の時に初代船遊亭扇橋の入門。烏亭焉馬や初代のところに随従し談志楼、初代立川金馬を名乗った。1831年に金馬を門下に譲り2代目を襲名。本名は日吉善蔵。享年不明。
[編集] 3代目
4代目三笑亭可楽の前名。1830年3代目襲名。
[編集] 4代目
前名春風亭小さん。初代春風亭柳枝門人。むらく時代はどういった活動していたか不明。本名、享年共に不明。
[編集] 5代目
(1828年(逆算) - 1898年4月26日)最初は司馬才次郎の門で師匠の、才次郎を相続、後に孫三と変え2代目三遊亭圓生の門で桃月庵白酒としさらに三遊亭圓鏡と改名した圓生の門では最後に桃栗山人と名乗った。
その後初代三遊亭圓朝の門で圓鷲と名乗り最後に5代目を襲名。本名は鹿島五兵衛。享年70。
[編集] 6代目
(1859年 - 1907年1月6日)素人時代から政談演説を主催していた。 噺家になったのは1887年頃に三遊亭圓喬(名乗った時点では4代目になるが、無断に名乗ったので代数に数えられていない。)と名乗っている。その後1892年8月に活動をの拠点を上方に移り笑福亭圓寿。帰京後に1893年に本名で寄席に上がり、1896年8月には三遊亭圓相となり1895年1月に初代にあたる全亭武生を名乗る。1898年に6代目を襲名。本名は永瀬徳久。享年49。
[編集] 7代目
後の3代目三遊亭圓馬。
[編集] 8代目
(1882年6月19日 - 1931年1月1日)俗に「酔払いむらく」「柳昇むらく」。 最初は14才時に3代目柳家小さんの門下でこの時点ではまだ初代の柳家小里ん。後に3代目春風亭柳枝の門で初代春風亭枝女好、まもなく千枝(せんし)としたが日露戦争に従軍していたので「戦死」と音が同じで縁起が悪いので柳曻(りゅうしょう)とした。除隊後は戦争体験を演じた。これが人気を博した。柳家金語楼の兵隊落語はこれをヒントにしたといわれる。1907年には師匠の前名、2代目春風亭小柳枝名乗るも、無断に襲名したため取り上げあげられて柳曻と戻し師匠の所に入られなくなり上方に移り柳生と名乗ったらしい。「睦会」が結成された時に周囲から東京に呼び戻されてまた柳曻で活動し始める。1916年には8代目を襲名し盛大に襲名披露を行った。
得意ネタは「らくだ」「替り目」「胴乱の幸助」「くやみ」など。 本名は籾山藤朔。享年50才。
[編集] 9代目
9代目柳亭芝楽の前名。
[編集] 現在は
その後、1951年に前座であった古今亭今夫が、8代目三笑亭可楽門下に移って二つ目に昇進する時に三笑亭夢楽と改名。久し振りに夢楽の名が復活した。今後、夢楽一門から3代目夢楽が生まれるかもしれないが、朝寝坊むらくの名が復活する可能性も無いとは言い切れない。
[編集] 出典
-
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X
- 今週の噺家 六代目 朝寝坊むらく - APP部屋サイト内6代目朝寝坊むらくのページ