末吉興一
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末吉 興一(すえよし こういち、1934年(昭和9年)9月20日 - )は、日本の政治家、元建設官僚。北九州市通算3人目の市長。
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[編集] 人物歴
1934年9月20日に、福岡県八幡市(現在の北九州市八幡東区)で生まれた。大分県立竹田高等学校を経て、1958年には東京大学法学部を卒業し、建設省に入った。1978年から1984年までは自治省にいたが、建設行政に長年携わり、国土庁土地局長を最後に退官した。
1987年、北九州市長選挙に立候補して当選し、同年2月20日より第7代(3人目)北九州市長に就任し、以後5期務めた。しかし、官僚としても市長としても、先代の谷伍平と同様に長期政権となり、その間に市民だけでなく、末吉を支持していた政党関係者の中からも批判の声が上がるようになり、2006年7月5日に、「市長としてももう『定年』だ」と述べて、次の市長選挙には立候補せず引退することを明らかにした。
その後、2007年2月4日実施の北九州市長選挙では、自身の建設省時代の後輩に当たる柴田高博氏を支援する姿勢を鮮明にしたが、選挙で柴田氏は対立候補の北橋健治氏に敗れた。そして2月19日に、5期20年の任期を終えて退任した。今後の活動については未定。
[編集] 市長退任の日のエピソード
- 末吉氏は、1987年2月の初当選以来、5期20年の長期に亘って市長を務め、「鉄冷え」に沈んでいた北九州市の再生に力を尽くしたが、多選批判を受けて、2006年7月に引退を表明した。
- 退任当日の午前、この日辞表が受理された高野利昭ら3人の助役と駒田英孝収入役を伴って、市議会議長や議会各会派の控室を訪ねて挨拶。「更なる市の発展を願っています」と述べた。助役・収入役の退任については、北橋新市長が「市政の刷新」を理由に交代させる意向を示したためであり、これを踏まえて両者が合意したものであることを、末吉市長が辞職発表の会見で明らかにした。
- 午後は、職員に最後の挨拶を行った後、15時過ぎに20年勤めた市役所を後にした。その際、末吉市長の退任を惜しむ一般市民も多数市役所玄関を訪れ、職員とともに見送った。
- 退庁後は、地元テレビ局を梯しながらインタビューを受けた。
[編集] 主な政策
- 「製鉄不況」により疲弊していた北九州市の産業構造を転換し、市を再生させようという目的で作られた。その成果については賛否両面あり、評価は「ポスト末吉」を選ぶ次期市長選挙に委ねられた。
[編集] 著書
- 実践都市経営(PHP研究所発行、2000年10月1日発売)
[編集] エピソード
- 小学時代の1945年8月に終戦を経験した時、「世の中に絶対という物は無い」と感じたという。
- 北九州市に誘致され若松区の学園研究都市に大学院を開設した早稲田大学から、2006年に「名誉博士」を贈呈された。
北九州市長 | ||
第2 ‐ 6代 谷伍平 |
第7 - 11代 1987.2.20 ‐ 2007.2.19 |
第12代 北橋健治 |
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