本多忠刻
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本多忠刻(ほんだ ただとき)は、江戸時代初期の播磨姫路新田藩主。
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時代 | 江戸時代初期 | |||
生誕 | 慶長元年4月14日(1596年5月11日) | |||
死没 | 寛永3年5月7日(1626年6月30日) | |||
別名 | 平八郎、忠為 | |||
藩 | 播磨姫路新田藩主 | |||
父母 | 父:本多忠政、母:熊姫 | |||
兄弟 | 政朝、忠義 | |||
妻 | 千姫 | |||
子 | 勝姫(池田光政室)、幸千代 |
本多忠政の長男として生まれる。母は徳川家康の嫡男岡崎信康と織田信長の長女徳子との間の娘熊姫。祖父は徳川四天王として名高い本多忠勝。大坂夏の陣の後、救出された徳川家康の孫娘・千姫と婚姻し、千姫の化粧料として父忠政とは別個に10万石を新地に与えられる。
剣術を好み、その頃天下無双の兵法者宮本武蔵を迎えて師事し、家士をしてその流儀を学ばせた。また武蔵の養子宮本三木之助を小姓として出仕させ側近とした。千姫との間には1618年に長女勝姫、1619年には長男幸千代が生まれたが、1621年に幸千代が4歳で没し、忠刻も1626年に結核のため31歳で死去する。宮本三木之助は忠刻の供をして殉死。
[編集] 経歴
[編集] 官位位階
墓所は、書写山圓教寺(兵庫県)本多家霊廟。
[編集] 関連書籍
- 福田正秀著『宮本武蔵研究論文集』歴研 2003年 ISBN 494776922X
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