本多忠純
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本多 忠純(ほんだ ただずみ、1586年(天正14年) - 1632年2月3日(寛永8年12月13日))は、下野国榎本藩の初代藩主。本多正信の三男で、本多正純や本多政重の弟。正室は片桐貞隆の娘。官位は従五位下、大隅守。
若い頃から父や兄と共に徳川家康に仕え、慶長10年(1605年)には下野榎本に1万石を与えられて諸侯に列し、榎本藩を立藩した。藩政においては小山氏の旧臣を新たに家臣として召抱えたり、城下町を建設したりと藩政の基盤を固めている。父や兄と違って武勇肌の人物だったため、慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても武功を挙げ、新たに1万8000石を加増され、2万8000石の大名となった。
しかし性格においては、短気な上に粗暴で、家臣を殺害することも珍しくないという問題人物だった。これが災いして寛永8年(1631年)12月13日、わずかな失敗から殺されることを恐れた家臣の一人・大助によって暗殺されてしまったのである。享年46。実子・忠次は寛永3年(1626年)に17歳で早世していたため、後を養嗣子の本多政遂が継いだ。
法号:善伯。墓所:群馬県下都郡大平町榎本の大中寺。
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