小山氏
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小山氏(おやまし)とは、鎌倉時代に下野国守護職に代々任じられた武家の名門。
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[編集] 流祖とその出自
流派は藤原秀郷流と称する。平安時代後期に登場した時点で小山庄を領し、その小山庄は都賀郡から寒川郡・結城郡まで及ぶ一万余町歩の面積を誇った。それゆえに、小山氏が早い時期から勢力を有した武家であったことは確かであり、藤原秀郷の後裔のなかでは嫡流筋ではなかったか思われる。
[編集] 歴史上への登場
地方の有力武家であった小山氏も歴史上にはそれほどの足跡を残していなかったが、平安時代末期の治承4年(1180年)の源頼朝による反平家の挙兵に大番役で在京中の当主の小山政光の三男、朝光が馳せ参じている。朝光は頼朝とは乳兄弟にあたり(頼朝の乳母は朝光の実母の寒河尼で政光の後妻)、特に頼朝の信頼は厚かったという。また、弟には遅れたものの政光の長男小山朝政・二男宗政も頼朝陣営に参陣している。寿永2年(1183年)には、常陸国の源頼朝の叔父にあたる志太義広が乱を起こすと、それを野木宮合戦で鎮圧する活躍をみせ、その後の平氏追討戦、文治5年(1189年)の奥州藤原氏に対する奥州征伐にも小山氏の兄弟は参陣し武功をあげた。
[編集] 小山氏の飛躍
政光のあとは長男朝政が継いだ。弟の宗政が長沼氏、朝光が結城氏を起こすなど、小山の三人兄弟はそれぞれ勢力を築いていく。小山氏はそれらの弟たちの起こした家を従える形で下野国南部地区に大勢力を築き上げた。なお正治元年(1199年)には播磨守護職に任じられるなど、鎌倉幕府内でも一翼をなしていた。
[編集] 鎌倉幕府滅亡、そして建武の新政と小山氏
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が笠置山で討幕の挙兵をした。それに対して鎌倉幕府は大軍を動員し上洛させた。そのなかに、小山氏の当主の子、小山秀朝も参加していた。しかし元弘3年(1333年)、新田義貞の討幕の挙兵に際しては寝返って討幕派となり、義貞に従って鎌倉攻撃に参加し立場を安堵した。建武の新政が始まると、秀朝は下野国守護職と下野国国司を兼任することを認められ、小山氏の持つ平安時代以来の権益を認められた。建武2年(1335年)、北条時行の中先代の乱が起きると秀朝は足利直義の命令で武蔵国に出陣したが、北条時行軍と戦って敗れ秀朝は自害して果てた。
[編集] 南北朝時代の小山氏
秀朝の死後、秀朝の嫡男、小山朝郷が家督を相続するが、幼少であり、秀朝の自害の際に多くの家臣がともに自害したため、小山氏の勢力は急速に縮小した。それでも北朝方から下野国守護職に任じられ、下野国をはじめとする関東の北朝方として活動した。しかし、関東では北朝方は振るわず、一族の結城宗広らは南朝方であった。建武4年(1337年)、小山城は北畠顕家の率いる奥州の大軍の攻撃を受けて陥落。朝郷は捕らえられた。しかし、南朝方の有力武将で小山氏の分家筋である結城宗広の助命嘆願と北畠顕家の温情によって許された。その後、朝郷の活動の記録はあるものの、南朝方優勢の状態が続き、目立った活躍は見られない。また、同族の結城宗広や結城親朝らからは南朝方に味方するように再三の要請の記録が残っている。しかし、幼少の自分を惣領と認め、下野国守護職に任じた足利尊氏への恩顧の意思は変わらなかった。
朝郷の後は、弟と思われる小山氏政が家督を継いた。そのころ、足利氏内部では、足利尊氏と足利直義の兄弟の不和が大きくなり、ついに観応2年(1351年)、観応の擾乱が起こった。氏政もそのなかで直義方の多い関東にあって尊氏に味方した。しかし、小山氏の勢力の衰えがこの時期に如実に現れる。多くの下野国の武士が小山氏ではなく、同じ下野の名族の宇都宮氏の当主宇都宮氏綱に従ったのである。こうして下野国守護職は宇都宮氏に引き継がれた。
[編集] 小山氏の増長と断絶「小山義政の乱」
氏政は勢力の挽回に励んだが、所領は増えたが従う国人は減少するという状態が続き失意の中で死去した。その後を子の小山義政が家督を継ぎ、下野守護職になった。応安元年(1368年)、鎌倉府による新田義宗の討伐に参加するなど活動している。康暦2年(1380年)、義政は、下野国で小山氏と互角の勢力を築き対立していた宇都宮氏の宇都宮基綱と争い、鎌倉公方足利氏満から内戦中止の命令を受けたが、それに従わず河内郡裳原の戦いで基綱を討った。しかし、これは私闘とみなされ、関東地方の治安を任された鎌倉公方足利氏満はこれを放置するわけに行かず、小山氏追討を諸将に命じた。これが小山義政の乱の勃発である。この乱は、独立性の高い伝統的な豪族である小山氏が、氏政以降、所領を拡大して勢力を強めたことが、小山氏の増長を生み、東国に新秩序を構築し支配基盤を確立せんとしていた鎌倉府の方針を軽視することにつながった結果といえる。義政は鎌倉軍に対して徹底抗戦したが、永徳2年(1382年)櫃沢城を落とされた義政は自害して果てた。義政の死後、子の若犬丸(小山隆政)がしばらく抵抗したものの敗れ消息不明となり、隆政の子も捕らえられ処刑されたため、平安時代以来の下野国に君臨してきた小山氏宗家は断絶した。
[編集] 小山氏の復興
鎌倉公方足利氏満は小山氏を滅ぼしたものの、小山氏の名跡が絶たれることを惜しみ、小山氏と同族の結城基光の子、泰朝をいれて小山氏を継がせた。この時期、小山氏は鎌倉時代以来続いた名門としての権威は失われた。小山氏は結城氏の庇護を受けながら勢力の回復に努めた。小山泰朝の子の小山満泰は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱に結城基光とともに鎌倉公方の持氏に味方して活躍し、応永29年(1422年)から翌年にかけての小栗満重討伐にも出陣している。この時期に「関東八屋形」という概念が生まれ、そのなかには小山氏も含まれた。
[編集] 一代の英傑・小山持政と享徳の乱
小山泰朝の子の氏朝が結城満広の養子に迎えられるなど、小山氏と結城氏とは親密な関係にあったが、満泰の子の小山持政の代になると、小山氏は勢力を盛り返し、結城氏から離れて独自路線をとるようになり、室町幕府と鎌倉府が対立した永享9年(1437年)の永享の乱では足利持氏に味方した結城氏に敵対し、幕府方に味方した。永享の乱で持氏が敗死したが、結城氏朝が持氏の遺児兄弟を擁して永享12年(1440年)に結城城で幕府に対する兵を挙げた(結城合戦)。このとき結城氏が一族の惣領的な地位にいたため一族の多くは結城方として幕府軍と戦った。そのなかで小山氏の持政は幕府軍に味方して活躍した。結城合戦は幕府軍の勝利で結城氏は没落した。合戦後、持政は下野守に任ぜられるなど自立した。嘉吉元年(1441年)に義政以来、久方ぶりに下野守護に復帰し小山氏は宗家断絶後の復興を成し遂げたのである。鎌倉府が絶えると上杉氏の勢力が強大化した。それに対して多くの関東の諸将を持ち、室町幕府に鎌倉府の再興を願った。足利持氏の遺子の足利成氏が赦免されて鎌倉公方として下向した。しかし、新公方成氏と上杉氏がうまくいくはずはなく、享徳3年(1454年)、ついに成氏が側近に命じて関東管領の上杉憲忠を殺害し、関東地方は公方成氏派と管領上杉氏派に分かれて対立し享徳の乱と後に呼ばれる争乱が始まった。この乱では持政は一貫して公方成氏を支持して活動し、享徳4年(1455年)には管領上杉氏派の同国の宇都宮氏と戦っている。公方成氏の信頼を得た持政は目覚しい活躍を見せた。成氏にとって持政は偉大な後見人となっていく。しかし、形勢は幕府が積極的に介入してきたことで、成氏は鎌倉を維持できなくなり、成氏は持政を頼って持政の勢力の強い古河に本拠地を移した。そのため成氏は古河公方と呼ばれるようになる。成氏は、小山氏、結城氏らの支援を得て関東管領上杉方と対峙した。幕府も長禄元年(1457年)に成氏にかえて鎌倉公方として、将軍足利義政の弟の足利政知を関東へ下向させた。しかし、成氏を支持する小山氏、結城氏らの勢力を恐れて鎌倉へは入らず、伊豆国の堀越にとどまった。その結果、成氏は古河公方、政知は堀越公方となった。それらの現状は、上杉氏の勢力と小山氏、結城氏の勢力が均衡を保っていた結果であった。強大な上杉氏に対抗するだけの勢力を有するまでに小山氏をしたのは持政の手腕であった。享徳の乱の間に嫡子の氏郷と嫡孫の虎犬丸を病気で失ったために、持政が老齢にもかかわらず小山氏の当主として成氏を助けて、各地を転戦して上杉方の軍勢との合戦を続けた。長享4年(1460年)、寛正5年(1464年)、文正元年(1466年)と将軍義政から再三にわたって帰順の命令がきた。それでも持政は頑として拒絶し、成氏の支持を続けた。文明3年(1471年)に4度目の帰順の命令が持政にきた。多くの将兵が傷つき、子や孫を失った持政の強靭な精神も一族、重臣の離反の危機などをうけて、ついに持政は幕府の命令に応じた。その後の持政の動向は不明だが、この年の内になくなったものと思われる。事実上、ここの小山氏は絶えた。その後も、名目上の当主は存在したようだが語るべき存在ではなく、歴史の底辺に沈んでいった。持政は最後の小山氏の惣領たる堂々たる武将であった。
一代の英傑、小山持政の後、またも小山氏は嫡流が絶えることとなった。そのため、一族の有力庶家の山川氏から養子のかたちで家名を存続させた。その養子が小山成長である。偉大な英傑の死によって後ろ盾を失った古河公方の足利成氏は文明10年(1478年)に関東管領の上杉氏と和睦し、その後、文明14年(1482年)には幕府とも和睦した。このことによっておおよそ30年間も続いた享徳の乱は一応の終焉を迎えた。しかし、それは新たなる争乱までの僅かな休息に過ぎなかった。
[編集] 長享の乱、古河公方の内紛と小山氏
長享元年(1487年)、今度は古河公方を押さえ込み、さらに強大になった上杉氏にほころびが見え始めた。それは上杉一族内部での主導権争いでした。山内上杉氏と扇谷上杉氏という上杉氏内部の有力家が対立し、両家の当主である(山内)上杉顕定と(扇谷)上杉定正との間で争いが生じ、関東はまたもや騒乱の嵐に巻き込まれた。古河公方足利成氏の後を継いだ古河公方足利政氏は当初は扇谷上杉定正を支持した。しかし、その上杉定正が死去すると、姿勢を変えて上杉顕定を支持するようになった。だが、今度は永正3年(1506年)になると古河公方家のなかでも足利政氏とその嫡男の足利高基との父子間でも対立が生じた。父子の対立の原因は、古河公方家の権威と勢力の回復策に対する方針の相違であった。足利政氏は山内上杉氏と提携しながらそれを実現しようとし、足利高基は急速な勢力拡大を推進している北条氏の力を利用することに活路を見出そうと考えた。それらの動きの中で小山氏は、持政が死の寸前に足利成氏から離反したとはいえ、成長が家督を継ぐと、方向転換して古河公方家と再び親密な関係を持つようになった。上杉氏同士の対立では目立った行動はなかったが、公方家の内紛が開始されると、成長は政氏に味方して活動し、政氏方の中心勢力となった。永正9年(1512年)、勢力を失い古河城を退去した政氏を小山祇園城に迎えるなど、政氏支援を継続した。永正11年(1514年)、政氏の命を受けた成長は佐竹義舜・岩城由隆らとともに、宇都宮氏の宇都宮城や古河城を攻撃したが、宇都宮氏に援軍として名将の結城政朝が出陣したために、小山・佐竹・岩城軍はもろくも撃退されてしまう。これを契機に政氏方は次第に劣勢になり、足利高基は古河城に復帰して政氏に代わる事実上の古河公方として活動する。永正13年(1516年)、小山氏も政氏の支援をやめて高基に味方するようになる。この背景には成長の子、政長の影響力が見え隠れしている。その政長が父の成長に代わって小山氏の実権を掌握し事実上の小山氏の指導者となる。その結果、政氏は小山氏の離反によって祇園城から追放され、足利高基が古河公方として認知されるにいたる。その政長の活動期間はさほどは長くはなく、男子を残さずに若年のうちに死去してしまった。そのため、一族で名将の誉れの高い結城政朝の子、結城高朝を養子に迎えた。
[編集] 結城氏・小山氏連合と小山高朝
結城氏から養子として小山氏に入り、家督を継いだ小山高朝は実父の結城政朝の血を受け継いで、武勇に優れ政戦両略の才ありと称せられた武将で、敵対する勢力には軍事力を用い、友好関係の勢力には外交を用いて、周辺の勢力から奪われていた旧小山氏領を取り戻していった。高朝は実の兄である結城政勝と小山・結城氏連合を形成して、周辺の有力な敵対する大名である宇都宮氏・小田氏・佐竹氏らに対抗しようとした。政勝には明朝という男子があったが、幼くして死去したため、高朝の三男の小山晴朝(結城晴朝)を政勝の養嗣子として迎えて結城氏の家督を譲ることに決めた。それによって連合の結束力はさらに強化されることとなった。小山氏を北方から虎視眈々と狙う宇都宮興綱に対抗すべく、結城・小山連合は宇都宮氏の勢力の北東にあって宇都宮氏と対立する那須氏と連携を深めていった。それに対抗して宇都宮氏は那須氏の南東、結城・小山連合の北東に位置する佐竹氏、小田氏と連携する様相になり、下野国・常陸国などの北東関東地方では、結城・小山・那須連合と宇都宮・佐竹・小田連合が互いに牽制しあう状況になった。
[編集] 北条氏の台頭と結城・小山連合の解体
天文14年(1545年)10月、河越夜戦が起こる。古河公方足利晴氏と扇谷・山内両上杉氏らは連合して北条氏康の関東侵略を阻止しようと、北条氏康軍と河越で衝突した。しかし、結果は北条氏康の大勝利に終わった。北条氏康は、武蔵北部から下野・下総・常陸に及ぶ広大な範囲へ勢力を伸ばそうとし、敗戦した古河公方足利晴氏は北条氏の影響下に入らざるを得なかった。 天文21年(1552年)、北条氏康は古河公方足利晴氏を押し込めて、自分の娘と晴氏の間にできた子である足利義氏に家督を譲らせた。古河公方押し込めによる交代は結城政勝・小山高朝兄弟をはじめ、関東の諸将に衝撃と動揺、そして困惑を与えた。義氏が古河公方になったことで、北条氏康は関東管領のように振舞うことになり、今までは北条氏に対して関心のなかった北関東の諸将たちも北条氏に対する対応を考えざるを得なくなった。
北条氏の台頭によって関東地方には大きな転換期が訪れた。それへの対応をめぐって小山・結城両氏の連合に歪みが現れる。また、小山氏の内部でも高朝とその子の秀綱との間に意見のずれが生まれた。高朝・秀綱父子は、足利晴氏と緊密な関係を結んでいた。そこへ義氏が古河公方に着任したことで、問題が起こった。それは、これからどちらを足利晴氏、足利義氏の父子のどちらを支持するからということであった。高朝は晴氏を支持する立場を堅持するとし、秀綱は義氏を新たに支持する立場への転換を明確にした。高朝・秀綱父子は意見が対立したが、小山氏の分裂することはなかった。しかし、結城氏は義氏を支持することを明確にしたため、結城政勝と小山高朝との間には進む方向に亀裂が生じ、結城・小山連合はここに解体することとなった。
[編集] 上杉謙信の登場と小山氏
永禄3年(1560年)の長尾景虎(後の上杉謙信)の関東出兵によって、関東地方の様相は激変する。関東管領上杉憲政を奉じて関東に出陣してきた長尾景虎は、上野国国内の北条方の諸城を鎧袖一触に粉砕すると、永禄4年(1561年)には、関東全域に檄をとばし、北条討伐の軍を起こす。その檄に応じて参集してきた関東の諸将を率いて北条氏の本拠地である小田原城に進み、これを包囲するなどした。そして、上杉憲政から上杉の苗字と関東管領職を譲られ、長尾景虎を改めて上杉政虎(その後輝虎、謙信と改名)と名乗った。小山氏ではこれに対応して、反北条であった高朝の主導のもと、上杉軍に参加し、足利晴氏の嫡子の足利藤氏の公方就任にともない、上杉謙信・足利藤氏の関東支配に参加した。上杉謙信の関東出兵によって関東には足利藤氏・上杉謙信という支配体制と、足利義氏・北条氏康という支配体制が並存するようになる。結果、小山氏もそれらの対立に巻き込まれる。高朝の三男で、秀綱の弟で結城氏を継いだ結城晴朝は結城氏の方針である足利義氏・北条氏康体制支持を明確にし、小山高朝、秀綱路線と対立することになる。
上杉氏と北条氏の対立の中で、小山氏は翻弄されていく。上杉謙信が関東に進出してくると、上杉氏に従い、上杉謙信が越後に帰国すると、北条氏の攻勢に怯え屈服するという状況が続いた。このころの小山氏は平安時代以来の名門の力も、鎌倉時代の武門の誇りも失われていた。当主秀綱も明確な方向性を見出せない状況が続き、家臣団も北条派と上杉派に分かれるなど、小山氏の惣領制度、支配体制にも大きな問題が生じていた。
[編集] 北条氏の強大化と反北条連合の結成
天敵と思われていた北条氏と上杉氏が越相同盟を締結し同盟したことは関東の諸将には安堵と不安を与えた。去就を迷い、近隣の諸将同士の戦いが減るであろうことに安堵した。しかし、越相同盟によって上杉氏の影響を考えなくてよくなった北条氏は、これまでのような古河公方足利義氏を利用しながらの統制から自己の武力による版図拡大路線へ政策を転換した。この北条氏の政策の転換は秀綱や結城晴朝・那須資晴らの北条氏を支持してきた諸将ですら、敵対してきた佐竹義重・宇都宮広綱らと反北条という統一見解に至り、北条氏の北進策に徹底抗戦していった。
[編集] 下野小山氏の終焉とその後
しかし、強大な武力によって北条氏は着実に勢力を拡大。下総の古河・関宿などの諸城は北条氏の攻勢の前に陥落。その支配するところとなり、ついに北条氏は小山氏領に進攻。天正3年(1575年)、北条氏の攻撃によって居城の祇園城は陥落。秀綱は佐竹義重を頼り逃亡、ここに400年続いた関東の名門、小山氏は滅亡した。
その後、北条氏は北条氏照を祇園城代に任じ、秀綱もその一配下となることで小山復帰が認められる。だが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏は滅亡して、小山氏の旧領は結城晴朝に与えられる。ここに至って秀綱は晴朝に従う事になった。秀綱は小山氏の再興を運動したものの果たせず、小山政種、小山秀広ら息子達に先立たれ失意のうちに病死した。小山氏の家督は秀綱の後は孫の小山秀恒が継ぎ、後に秀恒の子の小山秀堅が寛文年間に水戸藩士として取り立てられ存続し、現在に至っている。
[編集] 年表
和暦 | 西暦 | 事柄 |
---|---|---|
治承4年 | 1180年 | 源頼朝の反平家の挙兵に小山朝光(後の結城朝光)が参加。 |
寿永2年 | 1183年 | 常陸国の志太義広の乱を鎮圧する。 |
文治5年 | 1189年 | 奥州藤原氏に対する奥州征伐に小山氏の兄弟は参陣し武功をあげた。 |
正治元年 | 1199年 | 播磨守護職に任じられる。 |
元弘3年 | 1333年 | 新田義貞の討幕の挙兵に参加、義貞に従って鎌倉攻撃に参加。 |
元弘3年 | 1333年 | 建武の新政の結果、秀朝は下野国守護職と下野国国司を兼任する。 |
建武2年 | 1335年 | 北条時行の中先代の乱が起きる. |
建武2年 | 1335年 | 秀朝は足利直義の命令で武蔵国に出陣し北条時行軍と戦って敗れ自害。 |
建武4年 | 1337年 | 小山城は北畠顕家の率いる奥州の大軍の攻撃を受けて陥落。朝郷は捕虜に。 |
観応2年 | 1351年 | 観応の擾乱が起る。氏政は直義方の多い関東にあって尊氏に味方した。 |
応安元年 | 1368年 | 鎌倉府による新田義宗の討伐に参加。 |
康暦2年 | 1380年 | 義政は鎌倉公方足利氏満の停戦命令を拒否し宇都宮基綱を討つ。小山義政の乱。 |
永徳2年 | 1382年 | 義政は櫃沢城を落とされ自害して果てた。小山氏宗家は断絶。 |
応永23年 | 1416年 | 満泰、上杉禅秀の乱に結城基光とともに鎌倉公方の持氏に味方して活躍 |
応永29年 | 1422年 | 小栗満重討伐にも出陣。 |
永享9年 | 1437年 | 永享の乱では持政は幕府方に味方し勝利する。 |
永享12年 | 1440年 | 結城合戦では持政は幕府軍に味方して活躍した。 |
嘉吉元年 | 1441年 | 持政が義政以来、久方ぶりに下野守護に復帰。 |
享徳3年 | 1454年 | 享徳の大乱が始まる。 |
享徳4年 | 1455年 | 持政、管領上杉氏派の宇都宮氏と戦う。 |
長禄元年 | 1457年 | 幕府、成氏にかえて鎌倉公方として、将軍義政の弟の政知を関東へ下向させる。 |
長享4年 | 1460年 | 持政に将軍義政から帰順の命令がくるが拒絶。 |
寛正5年 | 1464年 | 持政に将軍義政から帰順の命令がくるが拒絶。 |
文正元年 | 1466年 | 持政に将軍義政から帰順の命令がくるが拒絶。 |
文明3年 | 1471年 | 持政に4度目の帰順の命令がくる。ついに持政は幕府の命令に応じる。 |
文明10年 | 1478年 | 古河公方の足利成氏は関東管領の上杉氏と和睦する。 |
文明14年 | 1482年 | 幕府とも和睦し、約30年間も続いた享徳の乱は一応の終焉を迎える。 |
長享元年 | 1487年 | 長享の乱。(山内)上杉顕定と(扇谷)上杉定正との間で争いが生じる。 |
永正3年 | 1506年 | 古河公方家で足利政氏と子の足利高基の父子が対立。小山成長は政氏に味方。 |
永正9年 | 1512年 | 勢力を失い古河城を退去した政氏を小山祇園城に迎え、政氏支援を継続した。 |
永正11年 | 1514年 | 政氏の命を受け小山成長は佐竹義舜・岩城由隆と、宇都宮城や古河城を攻撃。 |
永正11年 | 1514年 | 小山成長宇都宮氏の援軍の結城政朝に小山・佐竹・岩城軍は撃退される。 |
永正13年 | 1516年 | 小山政長も政氏の支援をやめて高基に味方するようになる。 |
天文14年 | 1545年 | 河越合戦が起こる。 |
天文21年 | 1552年 | 北条氏康は古河公方足利晴氏を押し込め義氏に家督を譲らせた。 |
永禄3年 | 1560年 | 長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に出兵 |
永禄4年 | 1561年 | 長尾景虎、関東全域に檄をとばし、北条討伐の軍を起こす。高朝が参加。 |
天正3年 | 1575年 | 北条氏の攻撃によって居城の祇園城は陥落。小山氏滅亡。 |
慶長8年 | 1603年 | 小山秀綱病死。息子はこれに先立って病没しており、小山氏宗家の家系は断絶する。 |
[編集] 歴代当主
[編集] 系譜
凡例 太線は実子。細線は養子。
藤原秀郷 ┃ 千常 ┃ 文脩 ┃ 兼光 ┃ 頼行 ┃ 宗行 ┃ 行政 ┃ 小山政光
政光 ┣━━━┳━━━━━┓ 朝政 長沼宗政 結城朝光 ┃ ┃ 朝長 結城朝広 ┃ ┃ 長村 結城広綱 ┃ ┃ 時長 結城時広 ┃ ┃ 宗長 結城貞広 ┃ ┃ 貞朝 結城朝祐 ┃ ┃ 秀朝 結城直光 ┣━━┓ ┃ 朝氏 氏政 結城基光 | ┣━━━━━┓ 氏政 小山泰朝 結城満広 ┃ ┃ 義政 結城氏朝 ├━━━━━━┓ 泰朝 隆政 ┣━━━━━━┓ 満泰 結城氏朝
[編集] 関連する事件
[編集] 関連項目
[編集] 関連する人物
- 藤原秀郷
- 源頼朝
- 新田義貞
- 北条時行
- 足利直義
- 足利尊氏
- 北畠顕家
- 北畠親房
- 結城親朝
- 宇都宮朝綱
- 宇都宮基綱
- 足利氏満
- 結城基光
- 上杉禅秀
- 大石内蔵助
- 小栗満重
- 足利持氏
- 結城氏朝
- 上杉顕定
- 上杉定正
- 足利政氏
- 足利高基
- 佐竹義舜
- 岩城由隆
- 結城政朝
- 結城政勝
- 結城晴朝
- 宇都宮興綱
- 宇都宮尚綱
- 北条氏康
- 足利晴氏
- 足利藤氏
- 足利義氏
- 上杉謙信
- 上杉憲政
- 武田信玄
- 佐竹義昭
- 宇都宮広綱
- 那須資胤
- 佐竹義重