本間雅晴
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本間雅晴(ほんままさはる、1887年11月27日 - 1946年4月3日)は陸軍中将。新潟県佐渡島出身。佐渡中学、陸軍士官学校を経て、大正4年陸軍大学校卒業。
太平洋戦争においてフィリピン攻略時、司令官として第14軍を指揮した。陸軍きっての英語堪能者といわれ、詩歌にも奏でた。フィリピン攻略後はバターン攻略の不手際をとがめられ予備役となる。
戦後マニラ戦犯裁判でバターン死の行進の責任者として召喚された。有罪判決が下り、本間は死刑となった。
処刑は、昭和21年4月3日午前0時53分、ちょうど4年前に陸軍第14軍司令官本間中将の口より総攻撃の命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて執行された。当時、ほとんどの将校の死刑が囚人服で絞首刑であったのに対し、本間の場合は、略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑であった。
[編集] 逸話
秩父宮付き士官時代はハンサムな本間は上流階級のサロンではよく噂になったという。宮が快活な人柄だったために、その行動に周囲から煩い声が聞こえている折であり、本間も口では「困ります」と言いながらテニスの相手をしたり気を使っていたという。
富士子夫人は証人として出廷した際、「わたしは今なお本間の妻たることを誇りにしています。わたしは夫、本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。わたしが、本間に関して証言することは、ただそれだけです……。」と陳述、その毅然とした姿に、裁判官も検事も感動の涙を流したといわれる。
[編集] 裁判の是非
有罪判決が下ると本間の弁護団はアメリカ連邦最高裁判所に人身保護令を求めたが、6対2の判決で却下された。45年12月19日審理開始、46年2月11日判決、4月3日銃殺という早さで処刑されたのは、この裁判がコレヒドールで屈辱的な敗北をしたマッカーサーの本間中将への復讐劇であったからだとする意見もある。
[編集] 参考文献
- 「いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝」(著者:角田房子)ISBN 4122002354(中央公論新社)
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