バターン死の行進
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バターン死の行進(Bataan Death March)は、太平洋戦争中1942年フィリピンにおける日本軍によるアメリカ軍捕虜の移送のこと。それに伴って日本兵や捕虜が死亡、負傷した。
フィリピンでは4月9日をバターン・デイ(Bataan Day)として休日に定めている。
概要
1941年12月23日、台湾から派遣されたフィリピン攻略の主力部隊である本間雅晴中将率いる第十四軍がルソン島リンガエン湾に上陸した。フィリピン防衛の任に当たっていたのはかのダグラス・マッカーサー率いる米比軍であった。マッカーサーは12月24日マニラの無防備都市宣言を行った後マニラから撤退、バターン半島のコレヒドール要塞に立てこもった。日本軍は翌1月2日にマニラの無血占領に成功した。
3月12日マッカーサーは "I shall return" の言を残してコレヒドールから脱出した。4月9日日本軍はコレヒドールを死者130名、負傷者6808名を出して占領。
1942年4月10日降伏した米比軍は8万もの捕虜を出し、これは日本側の予想を大きく上回るものであり、日本軍はこの半数にも満たなかったという。更に米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加わった。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍はサンフェルナンドに収容所を建設し、トラックなどが不足していたため捕虜を護衛付で行進させることになった。コレヒドール要塞では食料が尽きており、また日本軍さえも十分な食料を用意できておらず、さらに炎天下で行進が行われたために、60 - 70キロの道のりで多くの日本兵と米兵捕虜と難民が倒れた。
このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。脱走した捕虜から事情を聞いたアメリカ側はこの出来事を日本軍の残虐行為の典型として世論の反日感情を掻き立てたが、日本で放送を傍受した軍関係者はその意味がわからなかったといわれている。なぜならば当時の日本軍はトラックなどが不足していたため将兵の移動も徒歩で行うことが当たり前であり、また輸送の際は警護する兵士も重装備の上で同じ距離を歩いていた為、日本側の認識ではこの捕虜移送は残虐な行為ではなかったためである。戦後、本間らはマニラ軍事裁判においてこの件で有罪の判決が下り処刑された。この事件について明確な日本の戦争犯罪行為であるとの主張もあれば、部隊の機械化が米軍に比べ大幅に遅れており移送用の車両もなく、また物資の欠乏していた日本軍の状況を考えれば仕方のない事であり、捕虜虐待には当たらないとする主張もある。
関連項目
- 太平洋戦争
- バターン半島
- フィリピンの歴史
- w:Battle of the Philippines (1941-42)
- 反日感情
- バターン (LHD-5) w:USS Bataan (LHD-5)
- バターン (CVL-29) w:USS Bataan (CVL-29)
- サンフェルナンド