ダグラス・マッカーサー
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ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ軍の将軍(元帥)で、名誉勲章の受章者である。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
1880年、軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵営内の宿舎で生まれた。父のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり、名誉勲章を受章している。フィリピンでは初代軍政総督も勤めた人物であり、ダグラスは親子2代でフィリピンに縁があった。母のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはヴァージニア州ノーフォーク生まれで、マッカーサーは基地内で育った。兄のアーサーはアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大尉として1923年に死亡。弟マルコムは1883年に死亡。甥のダグラス・マッカーサー2世は駐日大使となった。
[編集] 陸軍入隊
1898年にウェストポイントアメリカ陸軍士官学校に入学し、1903年に陸軍少尉で卒業した。この時期、マッカーサーの母は学校の近くのホテルに移り住んでいた。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上抜群で、マッカーサーの取った成績以上の成績で卒業した者は、これまで2名しかいない (ロバート・E・リーがそのうちの一人である)。卒業後はアメリカ陸軍の工兵隊少尉としてフィリピンに勤務した。これが、彼の長いフィリピン生活の始まりであった。
1905年に父が在日アメリカ大使館付き武官となったため、彼も副官として日本で勤務した。その後に陸軍省に戻り、第一次世界大戦においては、各州の州兵を徴募して「レインボー師団」を結成、西部戦線で第42歩兵師団を指揮した。戦場では2回負傷し、15個の勲章を受章した。戦後は最年少で少将となり、士官学校の校長に就いた。1928年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた彼は「我々は勝つためにやって来た」と、オリンピックの意義とはかけ離れたことを答えた。
1930年にアメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任した。このポストは大将が勤める慣例であったが、彼は若かったため「大将待遇」となった。彼の副官には、後の大統領ドワイト・アイゼンハワーが付いた。このころ、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座り、陸軍が武力で排除したが、それは彼の立案であった。政府が持っていた、退役軍人たちは共産党に支援されているのではないかという疑念が彼の計画を許可させた。また、彼自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。フランクリン・デラノ・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領は不況対策と称して軍事予算を削っていたが、それは共産主義者の陰謀である、と考えていて、大統領をあからさまに批判して怒りを買った。
[編集] フィリピン生活
1935年に参謀総長を退任し、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカはフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民によるフィリピン軍が必要であった。初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、彼はダグラスの友人であり、軍事顧問の依頼は彼によるものだった。ダグラスが米陸軍でする仕事はほとんど無くなり、陸軍を大将で退官した後に、ケソンに応えてフィリピンへ赴いた。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。
マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、マニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。
1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した[要出典]。
1937年4月にフィリピンのケソン大統領に伴って、日本を経て一度帰国した。ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。
[編集] 太平洋戦争
1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、現役に復帰してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となった。大統領はダグラスを嫌っていたが、彼よりアジアに詳しく、優秀な軍人はいなかった。大統領は彼を少将で復帰させたが、ダグラスは大変不満であった。一度は名ばかりでも「元帥」に就いていたし、彼の後輩がすでに中将や大将になっていたこともしゃくに障った[要出典]。
12月8日に太平洋戦争が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、彼は戦闘機を操縦しているのはドイツ人だと信じた。マッカーサーはマニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で篭城する作戦に持ち込んだ。2ヶ月にわたって日本陸軍を相手に善戦していると、アメリカ本国では英雄として派手に宣伝され、生まれた男の子にダグラスと名づける親が続出した。しかし、実際には救援の来ない戦いに自分たちが苦しみ、このままではダグラス自ら捕虜になりかねない状態であった。一方、ルーズベルト大統領は個人的にはダグラスを憎んでいたが、彼が死んだり捕虜になれば、国民の士気に悪い影響があると考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。ダグラスはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはダグラスの長い功績をたたえて、彼の口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、ダグラスは仕方なく賛成した。
コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「I shall return 私は(天の意思により)必ず戻って来る(助動詞に意思を表す will ではなく自然の摂理である shall をマッカーサーは選んだとされる)」と言い残して、家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からB-17でオーストラリアに飛び立った。この敵前逃亡は彼の軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアで彼は南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後も彼の軍歴にこの汚点がついてまわり、彼の自尊心を大きく傷つける結果となった。アイシャルリターンはフィリピンのアメリカ軍の中でも流行語となり、「便所に行って来るぞアイシャルリターン」等と使われた。ここには部下を見捨てたマッカーサーへの皮肉の意味もあった。また、このときの日本陸軍の司令官であった本間雅晴陸軍中将が、戦後「バターン死の行進」の責任を問われ処刑された原因は、自尊心を傷つけられた彼の個人的な復讐であったという声もある。
1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。軍の決定を翻させてまでフィリピンにこだわった理由のもう一つは、上記に挙げた「私的財産の確保」であった。また、マッカーサーはアメリカ国内でも絶大な人気を得ており、ルーズベルトに「フィリピン侵攻」を飲ませた対価は、「マッカーサーが1944年の大統領選挙出馬を辞退する」密約がルーズベルトと成立したためだとする説が米国内でも有力である。マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸し、翌年には全土の奪還に成功した
[編集] GHQ最高司令官
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1945年8月15日に日本は連合軍に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)が連合軍代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちにアメリカを中心とする連合軍の占領下に入った。マッカーサーは1945年8月30日に神奈川県の厚木海軍飛行場に到着、以後1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。1945年9月27日には報道機関に掲載のため昭和天皇と会見写真を撮影した。
占領当時のマッカーサーのフリーメイソン階級は、The Grand Lodge of the Philippines(33位階)の地位にあったとされる。[要出典]
占領下の日本ではGHQ/SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。
[編集] 大統領選
しかし占領期間中、彼自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいた。現役軍人は大統領になれないことから、さっさと占領行政を終わらせて凱旋帰国したかった。そのため、1947年から彼はたびたび、日本の占領統治は非常にうまく行っている、日本が軍事国家になる心配はない、などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。
1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞は、彼が大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙で彼は共和党候補として登録された。彼を支持している人物には、シカゴ・トリビューン紙のロバート・マコーミック社主や、やはり新聞のランドルフ・ハースト社主がいた。ニューヨーク・タイムズ紙も彼が有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。6月の共和党大会では、1094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。
しかし、大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。マッカーサーと彼は、戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。
[編集] 朝鮮戦争
1950年6月25日にヨシフ・スターリンの許しを受けた金日成率いる北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取ったマッカーサーは、「考えたいから一人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。
1948年8月15日に行われた大韓民国の成立式典で、彼は李承晩に「貴国とは1882年以来、友人である」と演説し、有事の際の援軍を約束していた。彼はすぐに国連軍総司令官として戦争を指揮し、9月に仁川上陸作戦を成功させてソウルを回復した。しかし、中華人民共和国との国境まで迫ったこともあり、実態は中華人民共和国の国軍である人民解放軍で結成された「義勇軍」の参戦を招き、その後戦況は一進一退に陥った。ある説ではホワイトハウスは中共の「義勇軍」の参戦する情報を知っていながらマッカーサーに伝えなかったとも言われていた。 それを知らなかったマッカーサーは中共の「義勇軍」は参戦しないと発言してしまった。 マッカーサーを陥れた罠だったのであろう。 トルーマンとマッカーサーの不仲が原因なのか。 第一次世界大戦ではマッカーサーは准将でトルーマンは大尉か少佐だったのでコンプレックスを抱いていた。その為かマッカーサーが戦功を上げられないようことこどくマッカーサーの案を一蹴したことも朝鮮戦争の敗因の一つとも言えよう。
[編集] 更迭
このような状況を打開することを目的に、中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには核攻撃の必要性を主張してトルーマン大統領と対立した。翌1951年4月11日、彼は大統領から更迭を発令された。彼はそのとき愛妻のジーンと共に、来日したウォーレン・マグナソン上院議員とスターンズノースウエスト航空社長と会食をしていた。
副官のシドニー・ハフ大佐は、立ち上がったジーン夫人に解任のニュースを知らせ、「至急報」と書かれた茶封筒を渡した。 夫人はまた、その茶封筒をマッカーサーに黙って渡した。 内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かってこう言ったと伝えられている。「ジーン、これで帰れるよ」
マッカーサーの更迭については日本の非武装化推進などが当時のアメリカ軍部からも異論が有ったためとも言われている。オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。
4月16日、彼はマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け、毎日新聞、朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。また、吉田茂の日本政府は彼に『名誉国民』の称号を与えることを決定したが、マッカーサーは受けるとも受けないとも言わなかった。飛行機は午前7時23分に離日した。
[編集] 引退
4月19日、ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任に際しての演説を行った。彼は最後に、ウェストポイント士官学校の兵舎で当時流行していた歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ立ち去るのみ(Old soldiers never die, they just fade away.)」と言い、有名になった(ただし、正しいスピーチはややニュアンスが異なる)。議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨークをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まって彼を祝福した。
彼は1952年に再び大統領選出馬を画策するが、すでに年を取りすぎており、支持を得られず断念し、同年レミントン・ランド社(タイプライター及び銃器メーカー)の会長に迎えられた。1964年4月5日に老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院で死去。84歳だった。偉人として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂が出席した。
[編集] 性格
[編集] 趣味
マッカーサーの趣味は映画鑑賞だった。日本占領時も、宿舎であるアメリカ大使館の映写室に通い、日曜日の夜以外の毎日上映されていた。好きな映画は西部劇、コメディ、ミュージカルなど明るいものであったが、ニュース映画も欠かさず見ていた。特にソ連のヨシフ・スターリンが写ると、椅子から身を乗り出して一挙手一投足を観察していたと言う。また、寝る前の読書が好きで、歴史書をたくさん読んだが、文学書にはほとんど興味が無かった。
サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman)の「YOUTH(青春の詩)」を座右の銘として執務室に掲げていたという。
一方、体が資本の軍人ではあるが、スポーツの趣味は一切無かった。彼は生まれつき頑丈な体であり、体を鍛える必要も無く、GHQの医務室を訪れたことも無かった。日本占領時はアメリカ大使館と日比谷の総司令部を往復するだけであった。
[編集] 極めて強い自尊心
陸軍士官学校では最優秀な生徒であったが、軍人としては臆病者であり、拳銃の音一つでおびえていたなどといわれている。しかし、非常に強い自尊心の持ち主で、有能な同僚や部下に嫉妬することでも知られ、部下の間では「マックの下では一流になるな」というのが合言葉だった。かつてマッカーサーの副官であったドワイト・D・アイゼンハワー(後の大統領)との不仲は有名だが、こうしたマッカーサーの性格に起因しているといわれる。
マッカーサーは異常に自己顕示欲が強く、写真や映像に撮られる姿を常に意識していた。 レイテ島上陸の際、ひざまで海水に浸かりながら、海を歩いて島に上陸する有名な写真があるが、これは全く偶然の産物であった。マッカーサーは兵と共に揚陸艇に乗ったが、舟は遠浅の海に乗り上げてしまい、若い士官に「降りて行け」と命令された上、アイロンをかけたズボンが濡れてしまって大変不機嫌であった。しかし、このときの写真の出来がよく、不機嫌な顔がかえって勇敢に見えた為、次に上陸するときは、わざと手前で船を止め、兵と共に海を歩く姿を写真に撮らせていた。
彼が書いた文献には自身の活躍を誇張する内容などが散りばめられている。回想録に、実際には間に合わなかった日露戦争(奉天会戦)の観戦記を記している。例えば、自著の回想記には「1905年10月に日露戦争を観戦する為、サンフランシスコから出国した」と言う記述があるが、その時には既に日露両国は講和しているので明らかな嘘である。 さらに、太平洋戦争時に日本軍からフィリピンを防衛できなかったことについて、現実の規模よりも日本軍は大規模だったと主張した。これは戦争中であれば「情報不足による過大評価」と言うこともできたが、戦後に日本側の資料が明らかになって実際のフィリピン攻撃軍規模が判明しても、自身の回顧録内における日本軍規模の過大評価を訂正しようとはしなかった。
これらの逸話から察せられる様にマッカーサーは偏執狂であったのではないかと言う指摘もある。その為、マッカーサーの手記や発言等は歴史認識の為の資料としてあまり役に立たないと言う見方もある。
[編集] 日本についての発言・エピソード
マッカーサーによる日本復興を語る上で重要なエピソードとして、「目玉焼き事件」がある。コーンパイプを咥えて厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、横浜の「ホテルニューグランド」315号室に12泊した。ある日、マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スクランブルエッグ」をリクエストしたが、朝食で注文の品が並ぶことはなく、お昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた。マッカーサーは、料理人を呼び出して問いただしたところ、料理人はこう答えた。「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく鶏卵が一つ手に入りました。」その瞬間、マッカーサーは、日本が現在置かれている状況と、自分の為すべき仕事を理解したという。ただし、いかに終戦直後とはいえ格式あるホテルで国の最重要人物の食卓に卵をのせられないというような事態は考えにくい。このエピソードを事実として証明する関係者の証言はなく、マッカーサー流の外連(けれん)であると考えられる。
また、昭和天皇が戦後処理のためマッカーサーを訪問した際に、敗戦国の元首である昭和天皇を出迎えはしなかったが、会談の中で昭和天皇の真摯な対応に感銘を受けたことから、会談が終わったときには昭和天皇を車まで見送るといった事もした。
更迭後の1951年5月3日、朝鮮戦争における中国海上封鎖戦略について上院軍事外交共同委員会で
- They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.[1](日本は、資源の供給を絶たれることにより、1,000万から1,200万の失業者が発生することを危惧した。日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分がそれを回避することを担保 (security) するためのものだった)
と答弁した。これによりマッカーサーの認識した日本の戦争目的が様々に解されている。
- 日本の自衛戦争であった。(なぜこのような経済的動機が「自衛戦争」の根拠として正当性があるかの説明は確認されていない。"security"を「安全保障」と訳したり、前半部分を関連づけないでこのような意見を持つ者もいる。)
- 日本は侵略によって失業者大発生回避を担保しようとして戦争を引き起こした。
- 禁輸(ABCD包囲網)に対抗する目的であった。
また、民主主義の成熟度について「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年、日本ならば理想を実現する余地はまだある」と述べた。これは成熟した民主主義をもちながらファシズムに走ったドイツのケースと日本のケースを比較し、新生日本を擁護した文脈であった。しかしながら、“12歳”という部分だけが取り出され、現在に至るまで“日本の未熟さ”について「日本人の精神年齢が12歳程度」と侮辱したかのような誤解を受け続けている。
国際基督教大学(ICU)の創設にあたり、財団の名誉理事長として尽力した。戦後の民主化政策とあいまって、アメリカ型の高等教育機関であるリベラルアーツ・カレッジを設置することにより、共産主義勢力への戦略的牽制を図ろうとしたと考えられる。
[編集] 彼を取り上げた作品
- 『マッカーサー』 - MacArthur (1977年 監督:ジョセフ・サージェント 主演:グレゴリー・ペック)
[編集] 脚注
- ^ マッカーサー米議会証言録(web版正論)
[編集] 関連項目
- 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)
- ポツダム宣言
- 昭和天皇
- 白洲次郎
- 朝鮮戦争
- 李承晩
- マシュー・ペリー(近代日本に多大な影響を与えたアメリカ人)
- ウォルドルフ=アストリア
- ロッキード・コンステレーション
[編集] 参考文献
- 三好徹『興亡と夢』第5巻(集英社) - ISBN 08-7725898-8
[編集] 外部リンク
- Douglas MacArthur's biography at the Official U.S. Army website
- The MacArthur Memorial - The MacArthur Memorial at Norfolk, Virginia
- MacArthur Museum Brisbane - The MacArthur Museum at Brisbane, Queensland, Australia
- MacArthur - a site about MacArthur from PBS.
- Killing the Budda - Red Flags and Christian Soldiers - about MacArthur's effort and vision to establish International Christian University
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