来島通総
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来島 通総(くるしま みちふさ、永禄4年(1561年) - 慶長2年9月16日(1597年10月26日))は、伊予国の戦国武将。来島通康の四男。通昌(みちまさ)とも。幼名を牛松。母は河野通直の娘とされる。
1567年、父の通康が病死したため、7歳という若さで来島氏を継いだ。河野通宣には男子が無く、河野通直の孫である事などから後継候補に挙げられたとも考えられるが、河野氏は牛福丸が家督を継承した。その後、河野氏との関係が徐々に悪化し、羽柴秀吉の勧誘などもあって1582年に河野氏を離反し織田方に寝返った。このため、河野氏や毛利氏と伊予国内で抗争を繰り広げることとなった。この離反劇においては、甥にあたる能島の村上元吉が当初は行動を共にしていたとも言われるが、結局、元吉は毛利方に留まり、また来島村上家においても村上吉継、村上吉郷など家臣団の一部は河野、毛利氏方に留まっている。1585年に秀吉の四国征伐に際して先鋒として伊予国に帰国、その功績により、伊予国風早郡に14000石の所領を安堵された。
その後も秀吉に従って、九州征伐や小田原征伐に参戦する。1592年からの文禄の役では第5軍に700人を率いて陸軍として従事した、1597年の慶長の役では水軍の将として600人を率いて参戦したが、鳴梁海戦で戦死した。来島通総は文禄・慶長の役で戦闘中に死亡した唯一の大名である。また実兄である得居通年も同じく慶長の役で戦死している。