東漢氏
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東漢(やまとのあや)氏は、『記紀』の応神天皇の条に渡来したとされている阿智使主を氏祖とする氏族集団である。
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[編集] 東漢氏とは
東漢氏は集団の総称である。東漢氏は「倭漢氏」とも記述された。六世紀末頃までには河内国を本拠地としていた漢氏と区別するために両氏はともに、東西を氏上につけて区別した。それまではどちらも漢氏であったと思われる。
阿智使主の末裔の漢氏は飛鳥を拠点としたことから東漢氏となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏となった。両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませていることから実際は朝鮮南部にあった加羅諸国のうちの安羅国(現在の慶尚南道咸安郡)を中心とした氏族が渡来してきた可能性が提唱されている。
つまり「安羅」が「アヤ」となり呼称となったということである。そして、それらのアヤ氏のなかで伝わっていた「先祖は朝鮮北部にあった漢帝国に属した帯方郡から渡来した」という伝説から「漢」という文字をあてるようになったのではないかと考えられている。
また、東漢氏の技能と百済の先進技術との関係であるが、「書紀」の継体の条の記述によると百済から五経博士「漢高安茂」という人が派遣されており、それ以前に派遣されていた博士「段陽爾」と替えたいと百済は申し出ている。「漢」という名称そのものが元来から百済にあった可能性も考えられる。
くわえて東漢氏系といわれる「七姓漢人」という氏族集団があり、その姓に「高」「段」があることから、「高」は「漢高安茂」に由来し、「漢氏出身の高安茂」と読み、「高」が氏で「安茂」が名である可能性も考えられる。また、「段陽爾」の氏は「段氏」であろうから、「七姓漢人」は、上記の百済から派遣された「漢高安茂」、「段陽爾」に由来する一族と考えても差し支えはないと思われる。
注:「七姓漢人」とは、朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓からなる東漢氏系の氏族。
参考:門脇禎二(京都橘大学教授)は「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」と考えている。
[編集] 漢王朝との関係
東漢氏の「漢」が「後漢帝国」に由来するかであるが、伝説は伝説でしかない。系譜などから東漢氏は奈良時代になって漢王朝との関係を創作し権威づけを行っていったことがわかる。『続紀』には東漢氏の渡来に関して「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れて朝鮮に移住したことや氏族の多くが才能に優れて朝鮮で重宝されていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきたという伝承が記載されている。
[編集] 待遇
阿智使主の直系の子孫は天武天皇より「忌寸」の姓を賜り、他の氏族とは姓で区別がなされることとなった。
[編集] 技術者として
技術的には東漢氏はそれ以前から先進技術をもっていた秦氏の新羅系精銅・製鉄技術よりさらに新しい百済系の製鉄技術をもたらしたと考えられている。
[編集] 文人として
東漢氏の一族には東文氏があり、文人としての官人をも輩出している。七世紀から八世紀頃には内蔵省・大蔵省などの官人を多く輩出するなど、計数に明るい一族で高度な数的管理能力を持っていたと考えられる。
[編集] 武人として
東漢氏は蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している。崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の「東漢駒」が暗殺の実行役となっており、蘇我氏の与党であったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂を分かって生き残り、奈良時代以降も武人を輩出しつづけた。そして平安時代初期には蝦夷征伐で活躍した坂上氏の苅田麻呂・田村麻呂親子が登場する。
[編集] 東漢氏と坂上氏
東漢氏の宗家ともいえる系統は坂上氏初代の志努の兄、東漢直山木でその孫、東漢直磐井の子である東漢直駒が崇峻天皇の妃である河上姫と不倫関係となり、蘇我馬子の指図もあって天皇を暗殺したが、その結果、東漢氏の宗家は没落した。そのため、東漢氏の宗家は次男の志努の系統である分家坂上氏にもたらされたという。
ただし、東漢直駒に関しては不明な点も多く、東漢直駒は坂上氏初代とされる志努の子で田村麻呂の直系の先祖にあたる「駒子」に比定する説もあり、その説によると、坂上氏が蘇我氏と袂を分かった理由は蘇我馬子の命令を忠実に果たした駒子を馬子が口封じに殺害したために坂上氏が蘇我氏に対して恨みを含んだからだとしている。
そのため、坂上氏は東漢氏の宗家ではなく、東漢氏は末弟の「爾波伎」が継ぎ、「角古」、「久爾」、「福因」と続き、東漢直福因(倭漢直福因)は608年の小野妹子の遣隋使の際に留学生として同行し、623年に帰国し、「唐国に留まる学者は皆学びて成業したので帰国せしむるべきであり、大唐国は法式備わり定れる国であるゆえ、常に通交すべきである」と奏上したと日本書紀に記されている。