松平信平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 信平(まつだいら のぶひら、寛永13年(1636年)-元禄2年7月28日(1689年9月11日))は、江戸時代前期の旗本。父は関白鷹司信房、母は顕成王(白川顕成)の娘。正室は徳川頼宣の娘。鷹司松平家の祖。子に松平信政・島津綱貴正室・竹中定矩(竹中半兵衛の親戚の竹中家へ養子に入る)がいる。
鷹司家は五摂家の一つで公家社会では最高の家柄であったが、庶子である信平には門跡寺院に入るか、他の五摂家の養子になるなどの選択肢しかなかった。そこで15歳になった慶安3年(1650年)、江戸幕府3代将軍徳川家光の正室であった姉・孝子を頼って家臣1人だけを伴って江戸へと下った。家光はこれを歓迎して1,000俵の廩米と月俸200人扶持を与えられた。
承応2年(1653年)、将軍徳川家綱の配慮により家光の叔父である紀州藩主徳川頼宣の娘を娶り、翌年には従四位下左近衛少将に任じられて松平姓を与えられた。この年に従来の俸禄に代わって4,000俵の廩米を授けられる。
明暦2年(1656年)、実父の見舞いのために上洛する。延宝2年(1674年)、姉・孝子が病死するも、家綱はこれを憐れんで廩米に替えて上野国・上総国に合わせて7,000石を与えた。
公家から武家(子孫は大名となる)への転身という特殊な経歴から、「信平は実は徳川将軍家の血筋の人物なのではないか?」という憶測を生み出し、後世の松平長七郎伝説の土壌になったといわれている。