柳原家
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柳原家(やなぎわらけ、やなぎはらの読みは慣例)は、名家の家格を有する公家。京都十三名家。藤原北家日野流。家業は文学。江戸時代の家禄は202石。家紋は鶴の丸。明治維新後、伯爵。
日野俊光の4男資明を祖として鎌倉時代末期に創設された。江戸前期の資廉は霊元天皇の従兄弟にあたり、武家伝奏をつとめて幕府との交渉に活躍し、江戸中期の光綱も、議奏と武家伝奏に就任した。また柳原家は、代々文学、文筆を家業とし、光綱の子である紀光(光房)は歴史書「続史愚抄」を著している。
柳原家は幕末から明治維新にかけて人材を輩出する。光愛は権中納言、議奏となり、国事に挺身した。光愛の子、前光(さきみつ)は、西園寺公望とともに少壮公家中の逸材と言われ、戊辰戦争では東海道鎮撫副総督を務め、維新後、外務省に勤務。外務大丞、清国公使、ロシア公使、元老院議長、枢密顧問官、宮中顧問官を歴任した。前光夫人の初子は、伊達宗城の二女である。光愛の二女で前光の妹、愛子(なるこ)は、明治天皇に典侍として仕え、大正天皇の生母となった。
前光の末娘、燁子(あきこ)は、柳原白蓮(びゃくれん)として知られる歌人である。
承光の娘留美子は、皇太子徳仁親王のお妃候補として名前が挙がった。