伊達宗城
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伊達 宗城(だて むねなり、文政元年8月1日(1818年9月1日) - 明治25年(1892年)12月20日)は、幕末の大名、宇和島藩8代藩主(在任:天保15年(1844年) - 安政5年(1858年))。明治時代の政治家。官位は従四位下・遠江守・侍従。爵位は伯爵のち侯爵。
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[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
旗本・山口直勝の次男として江戸に生まれる。なお、祖父・直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった。幼名を亀三郎と称した。
文政10年(1827年)4月、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主伊達宗紀の仮養子となる。宇和島藩は初代仙台藩主伊達政宗の長男秀宗(庶流)を藩祖とする。文政11年10月、宇和島藩家臣・伊達寿光の養子となる。文政12年4月11日、なかなか嗣子となり得る男子に恵まれない藩主伊達宗紀の養子となる。宗紀の五女貞と婚約し、婿養子のかたちをとった。ただし、貞は早世してしまい、結婚はしなかった。
[編集] 藩政時代
天保15年(1844年)宗紀の隠居に伴い藩主就任。宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。
宗城は福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。
阿部正弘死去後、安政5年(1858年)大老に就いた井伊直弼と将軍世継問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福(とくがわ よしとみ)を推した。井伊は大老の地位を利用し強権を発動。結局、慶福が14代将軍・家茂となることになり、政敵を排除。いわゆる安政の大獄である。これにより宗城は春嶽・斉昭らとともに隠居謹慎を命じられた。
隠居の身となり宗城が養子となった後に宗紀の実子として生まれた宗徳に藩主の座を譲った。しかし、隠居の後も藩政に影響を与え続けた。また、謹慎を許されて後、再び幕政に関与するようになり、文久2年(1862年)には生麦事件の賠償金支払いに反対している。また、島津久光とも交友関係を持ち、公武合体を推進した。
[編集] 明治維新以後
慶応3年12月(1868年1月)王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねた。しかし明治元年(1868年)戊辰戦争が始まると心情的に徳川氏寄りであったので薩長の行動に抗議して、新政府参謀を辞任した。
明治2年(1869年)民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けた。明治4年(1871年)には欽差全権大臣として清との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられた。しかし、その年に中央政界より引退している。
宇和島伊達家は明治17年(1884年)華族令によって伯爵を授けられた。明治24年(1891年)宇和島藩は10万石格であったので通常は伯爵であるが、政府は宗城の功を認め特別に侯爵の地位を与えた。明治25年(1892年)今戸屋敷で病没。享年75。
法名:靖国院殿藍山維城大居士。 墓所:東京都台東区谷中の谷中霊園
[編集] 系譜
[編集] 関連項目
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