柴司
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柴 司(しば つかさ、弘化元年2月14日(1844年4月1日) - 元治元年6月12日(1864年7月15日))は、幕末の京都に駐留していた会津藩士である。姓は柴(しば)、諱(いみな)は次正(つぐまさ/つぎまさ)、幼名は又四郎(またしろう)のち司(つかさ)。
父は柴友右衛門次直、母は西郷氏。他に、幾馬次俊、寛次郎次久、外三郎次元の3人の兄が居た。
[編集] 略歴
元治元年、池田屋事件の残党狩りに追われる新選組に派遣された会津藩士の1人で、同年6月10日、いわゆる明保野亭事件を起こし、会津藩と土佐藩の関係修復のため兄の介錯のもと切腹した。享年21。
武家社会のしがらみの中で犠牲となった形であるが、彼の死によって会津藩と土佐藩の衝突が回避され、その潔い最期に対して会津藩主松平容保から兄に褒章がくだされている。
[編集] 墓碑銘について
京都黒谷金戒光明寺の会津墓地にある柴司の墓碑銘には、上記の続柄や事件の経緯とともに「言い伝えによれば、死ぬことが難しいのではなく、立派な態度で死に臨むことが難しいという。柴司などは、本当に立派な態度で死を迎えた者だというべきだろう」、「もし柴司が6月12日に死ぬことなく、禁門の変に参戦していたなら、どれだけ活躍したであろうか。これはとても残念なことである」とその死を惜しまれている。
法名・忠信院盡孝刃司居士。