柿崎景家
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柿崎 景家(かきざき かげいえ、永正10年(1513年)? - 天正3年(1575年))は戦国時代の越後国(新潟県)長尾氏・上杉氏の家臣である。上杉氏の国人衆。和泉守。木崎城、猿毛城を領する。父は柿崎利家。子に柿崎憲家、柿崎晴家、柿崎祐家。
春日山城の留守居役などを勤め、長尾為景、次いで上杉謙信に仕えた。永禄3年の小田原の後北条氏攻め、1564年(永禄4)の甲斐国(山梨県)の武田氏との第4回川中島の戦いでは先鋒を務め、八幡原の武田信玄の本陣を攻めている。それらの功から謙信の信任も厚く、奉行に任じられるなど要職を歴任した。1570年に謙信が北条氏康と同盟を結んだときは、子の晴家を人質として小田原城へ送っている。
1575年に越中国へ出陣中、織田信長の謀略により織田との内通を信じた謙信に越後水島で誅殺されたと言われているが、謙信がその程度の流言に引っかかって信任厚い景家を殺すかどうか、近年では病死説も強い(子の晴家は連座で処断されていない)。