棟田博
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棟田博(むねた ひろし)は自己の体験を元に戦争を描いた小説家である。いわゆる兵隊作家のひとり。
[編集] 経歴
1909年(明治42年)11月,岡山県津山に生まれる。美作(みまさか)人。家は料亭を営み、常に芸妓の姿や三味線の音が絶えなかったという。津山中学を経て,早稲田大学文学部国文科を中退する。地元に帰り、短歌同人に参加するなど,文学青年の道を歩む。1928年(昭和3年)に甲種合格、岡山歩兵第10連隊に現役兵として入営する。 連隊長は「俊秀,雲の如し」と言われた陸士十六期生のなかでも、特に逸材との噂の高い小畑敏四郎大佐であった。
小畑敏四郎、岡村寧次、永田鉄山の三人は、陸士十六期の三羽がらすと言われていた。
一年志願兵(のちの幹部候補生)の資格が有るにもかかわらず軍務に就き、伍長勤務上等兵として満期除隊。上京して文学活動を模索する。 1937年(昭和12年)29歳の後備役のときに,支那事変(日支事変・日華事変・日中戦争)が勃発し、8月赤柴部隊の歩兵上等兵として「第五動員」により応召。山東省に上陸し、歩兵分隊長として徐州作戦に参加する。(作戦中に伍長に昇進) 12月、済南に入城し、津浦戦線を経て、1938年(昭和13年)5月、台児荘の戦闘で重傷を負う。このとき、岡山歩兵第10連隊は中国軍の包囲に会い、全滅寸前の苦戦を強いられ,棟田の分隊もほとんどが戦死した。1939年(昭和14年)、青島(ちんたお)陸軍病院から内地還送,原隊の未教育補充兵の助教を務めたのちに除隊した。
日支事変中に,手紙を通して長谷川伸に師事し、長谷川の勧めにより,自身の体験を「分隊長の手記」として雑誌「大衆文芸」(1939年3月~1942年5月)に発表する。掲載中の1939年のうちから作品は単行本化され、たちまちベストセラーになり、棟田博は兵隊作家として時代の寵児となった。単行本として発刊後、2ヶ月ほどで30版を記録した。
大東亜戦争中は,陸軍の従軍作家としてジャワ,ビルマを巡り、インパール作戦にも参加する。
戦後は、細々と論評,時代小説などを書いていたが、1950年(昭和25年)に発表した「サイパンから来た列車」が評判になる。ついで「拝啓天皇陛下様」がベストセラーになり、1963年(昭和38年)には主演渥美清、監督野村芳太郎で映画化され,大いに話題を呼ぶ。翌年には続編も作られた。
1980年(昭和55年)から「陸軍よもやま話」「続 陸軍よもやま話」「陸軍いちぜんめし物語」を相次いで発表する。昭和初期の古き良き時代の、牧歌的な兵営生活をコミカルに描き、大東亜戦争末期の殺伐とした軍隊生活しか知らなかった世代に衝撃を与えた。