岡村寧次
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岡村 寧次(おかむら やすじ、明治17年(1884年)5月15日 - 昭和41年(1966年)9月2日)は日本の陸軍軍人。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任し、官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。貴族院議員加藤宇兵衛の娘を妻とする。
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[編集] 陸軍士官学校卒業まで
早稲田中学校、東京陸軍幼年学校を経て明治36年陸軍中央幼年学校を卒業する。明治37年10月に陸軍士官学校を16期生として卒業し11月に陸軍少尉に任官、歩兵第1連隊補充隊付を命ぜられる。同期には岡村を含めて三羽烏と呼ばれた永田鉄山中将・小畑敏四郎中将の他、土肥原賢二大将・板垣征四郎大将・安藤利吉大将がいる。明治40年陸軍中尉・陸軍士官学校生徒隊付を命ぜられる。岡村は士官学校在学中には中国研究をし、この時の生徒隊では中国からの留学生の教育を担当したた。明治43年12月に陸軍大学校に入校する。在校中に大尉に昇級し大正2年11月陸軍大学校(25期)を卒業し原隊である歩兵第1連隊中隊長に補される。
[編集] 任官から終戦まで
大正3年から参謀本部で勤務し同6年には北京駐在員として中国勤務を経験する。大正10年6月から半年間欧米に出張し、帰国後の大正11年2月歩兵第14連隊大隊長に就任、翌年の大正12年から上海駐在となる。大正10年の欧米出張の際には10月にスイス公使館付武官永田鉄山・ロシア公使館付武官小畑敏四郎とドイツ・バーデン・バーデンで合い、翌日には東条英機が合流した。会合では派閥解消・人事刷新・軍制改革・総動員体制等について密約したという。尚、この密約について詳細は明らかではないが後の極東軍事裁判で検察側が軍部独裁に繋がる端緒であるとして取り上げている。
昭和2年7月に陸軍大佐に進み歩兵第6連隊長を命ぜられる。翌年は参謀本部内国戦史課長、昭和4年8月から陸軍省人事局補任課長に就任する。補任課長在任中に三月事件に関わる。これは宇垣一成陸軍大臣を首班とする軍事政権樹立を企てたものであったが、テロ等の非合法手段を用いた計画であり当の宇垣が直前になって反対した為頓挫した。事件に幾許か関わったのであれば本来なら何らかの処分を受けるところだが、小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長等陸軍上層部の事件に関わっていた事からこの件は隠滅され岡村も処罰はなかった。
昭和7年2月に上海派遣軍参謀副長として転出し、同年8月には関東軍参謀副長に就任、昭和8年2月から満州帝国駐箚陸軍武官を兼ねる。同年5月31日には国民政府軍の全権だった何応欽と塘沽協定の締結にこぎつける。昭和10年3月に参謀本部第二部長として中央に復帰、翌年3月に陸軍中将に補せられ第2師団長に任じられる。師団は内地にあったが、昭和12年4月に満州に派遣され、同年7月には盧溝橋事件が発生し日中間で全面戦争に発展していく。昭和13年6月新設の第11軍司令官に就任する。第11軍は中支那派遣軍の隷下部隊で7個師団1個独立混成旅団を統括し、昭和13年10月の武漢攻略作戦では大いに活躍した。司令官在任中の昭和15年2月に勲一等旭日大綬章を受章し同3月には軍事参議官へ移る。
昭和16年4月に陸軍大将に進級すると同年7月には北支那方面軍司令官に就任する。岡村は司令官着任時に「滅共愛民」との理念から「焼くな、犯すな、殺すな」という三戒の遵守を訓示したという。昭和19年の大陸打通作戦では河南作戦を指揮した。同年8月第6方面軍司令官に転じ湘桂作戦を行う。昭和19年11月中国大陸の部隊を統括する支那派遣軍総司令官に就任する。兵力100万の大所帯である。中国大陸では武漢三鎮・広東を手中に収めこれ以上の攻略は難しいと判断した大本営は部隊をそのまま駐屯させる方針をとっていた。
[編集] 「終戦」以降
昭和20年8月に入るとには外国の無線等から日本が降伏する旨の情報が入るようになり、8月11日には大本営がポツダム宣言を受諾する旨打電してきた。しかし、岡村の指揮する支那派遣軍は持久戦を行っていた事から兵力がほぼ温存されており、無条件降伏を不服に思った岡村は8月14日に「(宣言受諾は)帝国臣民を抹殺するものに斉しく帝国臣民として断じて承服し得ざる」「徹底抗戦遂行に邁進すべく御聖断」求める旨天皇に上奏する。さて内地の軍中枢部でも宣言受諾が大方決まってからも徹底抗戦を求める声が強く、そこへ岡村上奏文が登場した事で勢いづき岡村は徹底抗戦派の首領とみなされてしまう。しかし、翌日昭和天皇が宣言受諾を決定した旨伝えられると、岡村は考えを改め「承詔必謹」(天皇の決断を承り実行する)とし隷下将兵に厳命する。
昭和天皇はポツダム宣言受諾し降伏するという意向を徹底させる為戦地に皇族を派遣する事し、陸軍大将の朝香宮鳩彦王、陸軍少将閑院宮春仁王、陸軍中佐竹田宮恒徳王の3人に命ぜられた。外地司令官は南方軍総司令官の寺内寿一元帥、関東軍総司令官山田乙三大将と岡村で、序列もそれぞれ寺内・山田・岡村の順であるから通常ならば皇族の序列もあわせて寺内は朝香宮、山田は閑院宮、岡村は竹田宮が派遣されるが、岡村は先の上奏文から強硬派と目されていた為派遣皇族の拘留等も考え岡村の処へ朝香宮が派遣された。17日、総司令部のある南京に到着した朝香宮は岡村に逢うなり「(抑留の虞があるというが)閣下は私を抑留されますか」と言ったという。
穏便に降伏となった支那派遣軍は9月に中国軍に対し降伏調印する事となるが、この時の中国側代表は、塘沽協定を締結した際の中国側全権だった国民政府陸空軍総司令何応欽大将だった。岡村は極力中国を支援するよう停戦業務にあたり、何大将は敬意を払って応対した。何大将は日本側に自力での復員業務を認め、岡村以下日本側の各級司令官に従前の権限を認めた為、兵士100万・市民100万は僅か10ヶ月で日本への復員・引揚を完了することができた。また、岡村が日本へ早く帰還しては国際軍事法廷での戦犯となるため中国に残留させて中国戦犯として裁き無罪となった。昭和24年1月には無事帰還し復員する。岡村と何大将はその後日本で再会を果たしたという。
戦後の岡村は昭和29年には全国遺族等援護会顧問に就任し、昭和32年5月から凡そ6年に渡り戦友会の全国組織である日本郷友連盟会長を務め昭和41年に病没する。また、岡村に蒋介石が接触したことから日本軍将校からなる軍事顧問団「白団」(ぱいだん:団長富田直亮の中国名、白鴻亮から)が結成され、昭和24年から約20年にわたり中国国民党政権に協力した。
[編集] 参考文献
- 『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想篇』(稲葉正夫編、原書房 なお、(下)は刊行されていない)
- 『支那派遣軍総司令官 岡村寧次大将』(舩木繁著、河出書房新社)