森安なおや
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィキポータル |
日本の漫画作品 |
日本の漫画家 |
漫画原作者 |
漫画雑誌 |
カテゴリ |
漫画作品 |
漫画 - 漫画家 |
プロジェクト |
漫画作品 - 漫画家 |
森安なおや(もりやす なおや:1934年11月9日 - 1999年5月21日)は、漫画家。漢字で書くと「森安直哉」。本名、森安直(ただし)。岡山県岡山市出身。
[編集] 人物
1950年代を中心に活動。漫画少年等の雑誌や貸本屋向けの書き下ろし単行本などの仕事が多い。藤子不二雄Aの『まんが道』でも登場し、トキワ荘での暮らし振りが語り草となった人物で知られる。トキワ荘時代からの漫画家仲間からは「何故か憎めない」と愛されていた人物であった。森安の描く作品は寡作ではあったが、叙情に溢れ、愛らしく繊細なタッチで再評価されつつある。
果実商の四男として生まれたが、幼い頃に母親と死別し、継母に育てられた。高校生の頃に「山陽新聞中学生版」に4コマが掲載されデビュー。連載される。上京し漫画家の田河水泡にの内弟子となる。同期の弟子に山根赤鬼・山根青鬼・滝田ゆう・藤田道郎(ドラマまんが道プロデューサー)鉄道研究家の三好好三など。師匠のつてもあり少年クラブにコマ漫画を掲載。 独立後、池袋のアパートに住み、1954年に知人から寺田ヒロオを紹介され藤子不二雄・坂本三郎・永田竹丸等と共に『新漫画党』を結成。合作やカット、短編を『漫画少年』を中心に発表する。漫画少年廃刊後の30年頃からはきんらん社・唱和漫画出版等の出版社が発行する貸本屋向けの書き下ろし単行本を数多く手がける。その後、複数の作者が掲載される貸本短編誌『星』『二十五時』等にも作品を掲載。1960年頃からは、貸本業界の衰退もあり就職をする。昭和40年代には雑誌COMでの競作企画『トキワ荘物語』で久しぶりに作品を発表。職を転々としながらも、その合間にはライフワークともいえる太平洋戦争時代の少年の成長をテーマにした長編『18才3ヶ月の雲』を20年掛けて執筆していたが、未完に終わった。亡くなる直前には、故郷岡山を舞台にした『烏城物語』が地元同級生有志の協力で出版される。東京都立川市の自宅で急性心不全のため逝去。享年64才。
[編集] 主な作品
- 赤い自転車
- マコちゃんとコロ
- こけし地蔵さん
- らんたん祭り
- おさげ社長さん
- 少女さくら
- トキワ荘青春物語(競作)蝸牛社
- 烏城物語
- 18才3ヶ月の雲 ※未完の100ページを越す長編。20章に分かれている。あたりだけの状態の下書き原稿も多いという。
[編集] エピソード
- 漫画を描き始めた頃は「下書きをしてからペン入れ」という作法を知らず、いきなりペン入れをしていた。そのための修正のホワイトがかさ張り、ポロポロと落ちたという。
- 藤子不二雄両人が悪戯で蝋製のピーナッツを与えたところ、美味そうに食べてしまった。
- 藤子不二雄Aのトキワ荘時代の日記によると、同室の鈴木が鍵をかけて寝たため自室に森安が来訪。就寝中に森安が『苦しい!』と騒ぎ出したので話を聞くと『腹が減って苦しい!』と言い出して一晩中(近所のパン屋が開くまで)苦しんだ由。
- 『まんが道』で「キャバキャバ」と奇妙な笑いの人物として描かれているが、この「キャバキャバ」は本来、当時のトキワ荘仲間で流行った造語(「やれやれ」「どうにもならない」という意味)として使われていた言葉である。他に「ピーマンバイ」など。
- 1981年のNHK特集で、漫画家として大成したトキワ荘メンバーが、取り壊しが決定したトキワ荘で25年ぶりの「同荘会」を開くという内容の番組が放送されたが、出世した他のメンバーを差し置いて、転職を繰り返しながら漫画家として再起をかける森安の姿に、メンバーの中で最も長く放送時間が費やされた(事実上、同番組の主人公的な立場だった)。バーで番組スタッフから「今でもやれば負けない?」と聞かれると「25年のハンディは絶対取り返せないよ」と答えた。また「僕が本当に番外だから、僕が居るとコントラストで彼らの出世ぶりが目立つ訳ですよ」と笑いを交えて語っていた。
- 鈴木伸一や永田竹丸らは、森安の才能にいち早く気が付いていた。そして彼らいわく、森安は「おおらかさとせせこましさが同居した様な」「豪快ではあったが繊細な」人物だったという。仲間内では一見賑やかなムードメーカーであったが、その中で絶えず周囲の反応を窺っていた様に見えたという。
- 遅筆でかつ「気が乗れば描き、乗らなければ描かない」、というスタイルであった。当時の講談社の編集者である丸山昭によると、困っているというので情けで何度仕事を依頼しても、森安は断り続けていた。しかし丸山が森安と顔を合わせる度、森安は「すみませんすみません」と言って逃げ回っていたという。