豆田町
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豆田町(まめだまち)は大分県日田市市街地北、花月川沿いにある商店街。南北に御幸通り、上町通りの二筋の通りが通されている。
御幸通りでは、電柱を撤去し地下に埋める工事を行い、より伝統的町並みを再現している。それにより、国土交通省によって美しい町並み大賞を受賞。数年後には、重要伝統的建造物群保存地区に選定され町並み保存が進む一方、観光色が濃くなっていったことに対して、古いというより古く造ったようだという評価も少なくない。 写真は下図のクランクカーブの真ん中から撮影したもの。このようなクランク上の道路は旧城下町で典型的とされる作りで、わざと見通しを悪くして侵入者(敵)を待ち伏せする為とも、距離感を狂わせる為ともいわれている。
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[編集] 歴史
慶長6年(1601)小川光氏が丸山城を築く際に十二町村(じゅうにちょう)より町を移し、丸山町として城の東に南北二筋の通りを開いたとされる。後、元和2年(1616)に石川忠総によって豆田町と改名される。現在の町割りは、享保9年(1724)以降に西国郡代増田道脩により改修された。明和9年(1772)・明治20年(1887)の豆田大火で多数の商家を焼失するものの再度復興する。昭和58年(1983)には、豆田地区町並み保存推進協議会を設立し、町並み保存運動が活発化する。
[編集] 行政区域
- 1889年(明治22年)4月1日 - 市町村制施行。日田郡豆田町となる。
- 1901年(明治34年)9月7日 - 日田郡隈町と合併、日田町となる。
- 1940年(昭和15年)12月11日 - 日田郡の6村と合併。市制施行し日田市となる。
[編集] 町割り
以下の図は元治元年(1864)に作成された広瀬家所蔵の豆田町絵図を基にして製作されている。 現在の町割りと若干の違いがあり、又、寸法などは必ずしも正確なものではない。上部を北とする。 永山城・日田陣屋方面 丸山町 ━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━ ┃ 殿┃ 花月川 ┃ 大┃ ┃ 橋┃ ┃ 橋┃ ━━━━━━┛ ┣━━━━━━━━━━━━━━━┫ ┣━━━━━━━━ ┃ ┃ ┃ 八坂神社 ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗━━━━━━━━ 川端町 城内町 ━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━ ┃ ┃ 薫長酒造┃ ┃ ┃ 壹┃ ┃ 宝┃ ┃ 丁┃ ┃ ┃ ┃ 目┃ ┃ 町┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ━━━━━━┛ ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗━━━━━━━━ 大超寺道 風呂屋丁 ━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ━━━━━━━┫ ┣━━━━━━━━━━━━━━━┫ ┣━━━━━━━━水 ┓┏━━━━━┫ ┣━━━━━━━━━━━━━━━┫ ┣━━━━━━━━ 路 ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃長福寺 ┗┗━━━━━┛ 貳┗━━━━━━━━━━━━━━━┛ 平┗━━━━━━━━ 牢屋道 丁 油屋町 野 ┏┏━━━━━┓ 目┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ 町┏━━━━━━━━ ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗┗━━━━━┛ ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗━━━━━━━━ 若宮丁 住吉町 ┏━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━水 ┃┏━━━━━┫ ┣━━━━━━━━━━━━━━━┫ ┣━━━━━━━━ 路 ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┃ 広瀬家 ┃ ┃ ┃┃ ┃ ┃ 博多屋 ┃ ┃ ┛┃ ┃ 三┗━━━━━━━━━━━━━━━┛ 八┃ ━┛ ┃ 丁 魚 町 幡┃ ┃ 目┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ 町┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 草野本家 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┏━━┛ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ━━━┫ 至┏━━┗━━━━━━━━━━━━━━━┫ 至┣━━━━━━━━ 水 ━━━┫咸隈┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 大┣━━━━━━━━ 路 宜 原 園町 参 道
[編集] 関連項目
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