江若鉄道キニ4形気動車
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キニ4形気動車は、江若鉄道が1931年9月に2両を日本車輌製造本店(日車)で、1両を川崎車輌(川車)でそれぞれ新造した、大型の旅客・荷物合造ガソリン動車である。厳密には日車製キニ4・5がC4形、川車製キニ6がC6形と異なった形式として新造されたものであるが、同一仕様での2社同時発注による競作であり、取り扱い上もほぼ共通であったことから、本項でまとめて取り扱うこととする。
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[編集] 概要
1931年1月1日の近江今津延長線開業に合わせて就役した川車製キニ1・2および日車製キニ3に続く増備車として、再度日車と川車の競作として設計され、竣工以来1969年の江若の廃線まで、38年の長期に渡って改造を重ねつつ主力車として重用された。
日本国内向け内燃動車としては初の18m級軽量車体を備えるその基本デザインは、当時日本において気動車設計の最先端を走っていた日車の手によるものであるが、前作であるキニ1形(C1・C3形)および次作であるキニ9形(C9・C10形)と同様に、川車製と日車製では台車構造や車体の細部仕様に差異が見られた。
本形式の設計とその使用実績は、後に両社が設計および製造に参加した鉄道省キハ40000・41000・42000形の設計に多大な影響を与えた。
[編集] 車体
車体長18m級の軽量形鋼による半鋼製車体を採用する。
最大寸法は日車製が18,400mm(長さ)x2,720mm(幅)x3,675mm(高さ)、川車製が18,400mm(長さ)x2,700mm(幅)x3,640mm(高さ)で、自重は日車製が19t、川車製が20tを公称したが、16m級でキニ4の設計を継承した鉄道省キハ41000形でさえ自重を20tと公称しており、戦後のキニ6→キハ5123が機関換装[1]と液体変速機搭載を実施していたとは言え、25tを公称したことから判断する限り、実際には両者とも新造時より20tを大幅に超過していたと考えられる。
いずれにしても、同時代の18~19m級電車が自重35t~50t前後であったのと比較すれば驚くべき軽量設計であるが、1tあたりの出力で比較すると一般的な電車の半分に満たず[2]、気動車が率先して低抵抗率のローラーベアリングを導入したのも頷ける非力ぶりであったから、これは低出力の機関で可能な限り大きな車両を実現するには当然の設計であったと言えよう。
車体主要部の組立にはリベット接合が使用されており、外観上、やや古風な印象を与えていた。
窓配置は荷物室および荷物扉[3]が用意されていた関係で、dD(1)2(1)D10D(1)3およびd2(1)D10D(1)2(1)D1(D:客用扉および荷物扉、d:乗務員扉、(1)は戸袋窓)という運転台側にのみ乗務員扉を備えた変則的な非対称配置となっており、全線通しで運転すると所要時間が1時間半を超えることに配慮して長距離運行に適した車両とすべく、定員120名、座席定員69名のうち、荷物室直後の側窓4枚分と、扉間の側窓10枚分で合計56名分が対面式配置の固定式クロスシートとされ、荷物室と反対側の車端部は半室運転台の向かい側が前面窓際まで座席の延びるロングシートとされた。
前面窓は川車製は運転台を左隅に配置する、一般的な3枚窓構成であったが、日車製については運転台スペースを車体幅の約半分の幅(半室)確保するためにまず2等分し、更に通風やガラス寸法等の都合から2分した、4枚窓構成とされ、双方とも全ての窓が2段上昇式とされていたのが大きな特徴であった。
このレイアウトは、恐らくは同時代のアメリカのガス・エレクトリック(電気式ガソリンカー)の前面デザインの影響下にあるものと推測されるが、変速機の都合でシフトレバーなどのためのスペースが大きくなりがちな機械式気動車において運転台スペースを適切に確保できることが評価され、鉄道省キハ40000・41000形にも踏襲された他、以後日車が各社向けに製造した大型気動車群にも好んで採用されたため、この様式は日本各地に広く普及した。
[編集] 主要機器
[編集] 台車
台車は日車製が同社標準の菱枠式、川車製がキニ1のそれを踏襲したブリル揺枕式で、軸距はそれぞれ1700mmと1600mmであった。両者とも走行抵抗軽減を目的として、軸受に当時としては高級なローラーベアリングを装着していた。
日車製に採用された菱枠式台車は後年鉄道省キハ40000・41000・42000形が採用したTR26~29の原型に当たる、当時の日車本店の標準設計品(BB75など)のバリエーションモデルの一つであり、いかなる理由によるものかは不明[4]であるが、枕バネ部分が一段上に飛び出した、特徴的な構造を採用していた。
これに対し、川車製台車は路面電車用ブリル76E/77E系台車に類似した、板バネを線路方向に搭載する枕バネ構造を備える軸バネ式台車[5]で、戦前期としては珍しくチェーンによる2軸駆動を採用していたが、これはチェーンの材質不良による切断事故が多発したためか、他社と同様に比較的短期間で1軸駆動に改められている。
更に、川車製と日車製では台車のセンターピン間距離が異なり、前者が11m、後者は13mとなっており、前者は台車の軸距が短かったことと、このオーバーハング過大が原因で乗り心地に問題があった。このため、戦後この問題の改善を目的として、川車製については日車製と同様の菱枠台車への交換とセンターピン間距離の変更[6]が実施されている。
[編集] 機関・変速機・逆転機
本形式に搭載されたエンジンはアメリカ合衆国ウィスコンシン州ウォーケシャに本拠を置いたウォーケシャ発動機社[7]が製造したウォーケシャ6RB[8]で、これは当時日本国内で入手可能な気動車用エンジンとしては最大級の機関[9]であり、江若が平坦線主体であったことを考慮すれば妥当な機関選択であった。
変速機は機械式で、ウォーケシャ社製エンジンの指定品であったアメリカ・コッター社製が装着された。
逆転機は減速用ギアボックス一体型の一般的な傘歯車摺動式で、日車本店が開発した、台車枠のトランサム(横梁)から2本の抗トルク用平行リンクで支持される、簡潔にして合理的なメカニズムを採用していた。
[編集] ブレーキ
ブレーキはSME(非常弁付直通空気ブレーキ)で、手ブレーキも搭載されていた。
[編集] 江若鉄道での運用
就役開始後、直ちに主力車として江若の顔となった。
戦時中は沿線の皇子山付近に陸軍歩兵第9連隊が立地し、しかも終点の近江今津にほど近い饗場野に演習場があったことから、その移動手段として重用され、陸軍の威光で比較的燃料確保が容易であったらしく、しかも本形式やキニ9形の場合、大型車であって代燃装置の利用が困難[10]であったことから、戦時中はほとんど代燃化せずにそのままガソリン動車として使用されていた模様である。
このため、陸軍の威光が消えた終戦直後の混乱期には、燃料入手難から本形式は一旦客車化され、更に石炭価格の高騰で背に腹を代えられなくなったのか、遅くとも1948年までには全車が代燃装置を設置して木炭ガス気動車となった。
その後、1949年には陸軍に代わって皇子山にキャンプを設置した占領軍(アメリカ軍)の威光により、機関の日野DA54Aディーゼルエンジン(縦型6気筒 公称出力80PS)への換装[11]を実施した。
また、戦中戦後の過酷な使用状況が原因で台枠垂下が発生したことへの対策として、床下へのトラス棒の装着が実施され、車体強度の向上が実現した。もっとも、このトラス棒装着は保守に当たって大きな障害となったため、キニ6については後年のキハ5123への大改造時に撤去されている。
更に、川車製キニ6に対する台車交換・車体側ボルスタ位置移設が実施された他、3両全車の運転台仕様統一が実施され、1956年には左隅に寄せられていた運転台を中央に移設した上で、キニ4・5の前面窓を川車製キニ6の仕様に揃えて均等配置の3枚窓構成に変更し、3両とも中央窓を1枚固定式とすることで新造以来の日車・川車製での仕様の相違点がほぼ解消された。
その後は機関のDMH17系への換装以外、特に大きな改造もなく推移したが、1965年にキニ6が他形式の一部と共に「気動車列車」実現のために大改造を実施され、キハ5123(C25M)へ改番された。
主な改造内容は車掌台側への乗務員扉設置、前面貫通扉の設置と運転台の左隅への再移設、ヘッドライトの屋根上1灯式から左右の幕板上部へのシールドビーム2灯設置への変更、連結器の鉄道省基本型自動連結器[12]から日本鋼管製NCB-II小型密着自動連結器への交換、変速機の新造以来の機械式から振興造機TC-2液体式変速機への換装とこれによる総括制御化で、ラッシュ時にはキハ5123-キハ5120(旧キハ30)-キハ5124(旧キハ24)で3連を組んで運用された。
当初の計画では、キニ4・5も同様の改造を実施する予定であったが、この改造は国鉄湖西線の建設に伴い江若鉄道が廃止されることが決定したためか他車には普及せず、キニ4・5はそのままの姿で廃止まで使用された。
[編集] 江若鉄道廃止後
1969年の江若鉄道廃止時には、キニ4・5は三井寺下の車庫で廃車解体処分となったが、大改造が施されていたキハ5123は「気動車列車」を構成していた他車の大半と共に関東鉄道へ譲渡され、同社竜ヶ崎線へ番号もそのままに配置された。
その後、1971年8月の竜ヶ崎線ワンマン化実施に合わせてワンマン対応機器の搭載を実施してキハ531へ改番、1977年には車体の老朽化に伴い大栄車輌で車体を新造し、主要機器を載せ替える工事を実施した。
その間、時期は不明であるが台車を国鉄キハ07形発生品のTR29への換装を実施しており、最終段階では事実上車籍のみを継承する状態であった。
キハ531は1997年まで使用され、そのまま廃車解体されている。
[編集] 脚注
- ^ 新造時のウォーケシャ6RBとキハ5123当時のDMH17Bの重量差は約0.5tであった。つまり、装備改変に伴うその他の重量増を考慮しても、新造時の自重は23~24t程度であった可能性が高い。
- ^ 例えば、当時の電車でも出力/重量比が良くない部類に入る、魚腹台枠装備で重い車体を備える初期鋼製車群でさえ、出力/重量比が12~15PS/t前後となっており、少なくとも2.5~4倍程度の性能が得られていたことになる。しかも、電車の主電動機の定格出力は内燃機関の定格出力と同列で比較できない(電動機は絶縁材の耐熱性能などの許す範囲で定格超過が許容される)ため、当時も今も電車は付随車を連結して使用されるケースが多いことを考慮してもなお、本形式と電車の実用上の性能差は無視できぬほど大きなものであった。
- ^ 浜大津寄り運転台部分の半室と、直後の荷物扉部分が荷物室スペースとして確保されていた。最大荷重は0.5tである。
- ^ 一般的な気動車用ガソリンエンジンの全高が800~900mm程度であった当時、全高が1,063.6mmと非常に背の高い大型の縦型機関を装架するためにやむなく床下高が高くされ、かつ既存台車の軸バネ部を流用したためにこの様な設計となったと推測される。
- ^ 逆転機はキニ1・2の設計を踏襲して、電車の吊り掛け式モーターと同様に台車の端梁に吊り掛け支持されていたため、電車用台車に近い構造でなければならなかったのは事実である。もっとも、このキニ6は後述の通り再三に渡って台車周辺の改造が実施され、最終的には台車そのものの交換に至っており、その設計には難があったことが窺える。
- ^ 台枠の梁位置の制約から日車製と同一には出来なかったらしく、12.24mとされた。
- ^ Waukesha Motor Co.現ドレッサー社ウォーケシャエンジンディビジョン(Waukesha Engine Division. Dresser,Inc.)。
- ^ 縦型6気筒 排気量677Cuin≒約11100cc 公称出力105hp(1,300rpm時)、最大出力120hp(1,600rpm時)。
- ^ この機関には「ビッグシックス」という愛称があり、他社では中型気動車に搭載して貨車牽引可能とする例も見られた。なお、機関単体の重量は715kgである。
- ^ 当時江若は琵琶湖天然ガス会社へ出資しており、1943年3月認可でキニ9へ梁瀬式隔膜形圧縮ガス装置取り付けの記録があるが、ほとんど使用実績が残されていないという。
- ^ 占領軍側担当者との交渉によって、早々に燃料配給の許可を得たと伝えられており、イレギュラーな手段で燃料を確保せざるを得なかった他社に1年以上先駆けて、それも他社では義務づけられていた代燃装置の併用無しでのディーゼル化を実現した。DA54Aは陸軍のいわゆる統制型エンジンの系譜に属するエンジンの一つで、戦後1947年に発売されたトレーラーバスに装架されたことで知られる。
- ^ 竣工時は日車製は同社考案の簡易連結器を、川車製が川崎式簡易連結器と称する日車製簡易連結器のデッドコピー品をそれぞれ装着していたが、戦中戦後の混乱期に客車代用、あるいは代燃車として使用されていた時期に、超満員で過積載の連結運転による連結器破損が生じたことから、いずれも丈夫な基本自連に交換されていた。