江見水蔭
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江見 水蔭(えみ すいいん、1869年9月17日(明治2年8月2日) - 1934年(昭和9年)11月3日)は、日本の小説家。本名、忠功(ただかつ)。岡山県岡山市生れ。
軍人を志して上京するが、杉浦重剛の称好塾で巌谷小波らを知り硯友社に入る。「旅画師」で出発した後、江水社を起こし田山花袋らを指導した。小説「女房殺し」のほか、『自己中心明治文壇史』は文学史資料として貴重な作品。
[編集] 経歴
1869年8月2日、岡山の一番町一番屋敷に生れた。父は鋭馬といったが、水蔭が幼少の頃死亡。1881年、叔父水原久雄の勧めで軍人を志して上京、だが次第に文学に興味を惹かれるようになり、15歳のときに軍人を諦める。1885年、従兄富田嘉則のもとに預けられ、杉浦重剛の称好塾に入り同人雑誌「毎週雑誌」を発刊した。またこの頃巌谷小波が塾に入り知り合うようになり、1888年6月14日、小波とともに尾崎紅葉を訪ねた。叔父も水蔭が作家として活動することを認め、また川上眉山、石橋思案、石橋忍月、広津柳浪らを知った。
小波の勧めで硯友社に属し、「我楽多文庫」第三号に狂歌一種が載せられ、新人社員水蔭亭雨外として紹介される。翌年「文庫」に「旅画師」を発表し、本格的な文筆活動を始めた。1892年、江水社を起こし田山花袋ら門人を迎える。浪漫的に始まった作風もこの頃から広がりを見せ、脚本も書くようになり、多くの芸術家の苦悩を描いた作品を世に出した。さらに通俗的な作品を書くようになり、探偵小説「女房殺し」(1895年10月、「文芸倶楽部」)は好評を博した。「新潮来曲」「旅役者」「泥水清水」といった作品を発表し最盛期を迎えるが、一方で生活が乱れ、1898年に神戸新聞社に記者として転職、さらに1900年に博文館、1907年に二六新聞と、職を転々とした。
晩年は講演などのために各地を回り、その旅の記録は『水蔭行脚全集』に詳しい。また、『自己中心明治文壇史』は、明治期の文人の生活の様子が詳しく、文学史資料として重要である。1934年11月3日、松山市の旅館で客死した。